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15,012

スレッドNo.243

論語でジャーナル’26

15,定公問う、一言にして以て邦を興(おこ)すべきものありや。孔子対(こた)えて曰く、言は以て是(か)くの若くなるべからざるも、それ幾(ちか)きなり。人の言に曰く、君たること難く、臣たること易からずと。如(も)し君たることの難きを知らば、一言にして邦を興すに幾(ちか)からずや。曰く、一言にして邦を喪(ほろ)ぼすべきものありや。孔子対えて曰く、言は以て是(か)くの若くなるべからざるも、それ幾きなり。人の言に曰く、予(われ)君たることを楽しむことなし。唯(ただ)、その言いて予(われ)に違(たが)うもの莫(な)きを楽しむなりと。如しそれ善くしてこれに違うもの莫(な)きは、亦善からずや。如し善からずしてこれに違うもの莫きは、一言にして邦を喪ぼすに幾からずや。

 魯の定公がおたずねになった。「ほんの短い一句で、国を隆盛させる金言のようなものはないだろうか」。孔子が謹んでお答えした。「言葉というものはそうすぐ本質に接近しうるようなものではありませんが、それに近いものならばございます。人民の諺に、『よき君主となることは困難であり、よき家臣となることも簡単ではない』というのがあります。もし本当によき君主になることの難しさがわかったら、この言葉こそわずか一言で国を隆盛させるものに近いと言えるのではございませんか」。定公がまたおたずねした。「短い一句で国を滅亡させるようなものがあるかね」。孔子が謹んでお答えした。「言葉というものはそうすぐ本質に接近しうるようなものではありませんが、それに近いものならばございます。人民の諺に、『自分は君主となったことを少しも楽しいと感じたことはない。ただ自分の発言に対して臣下が誰も反対する者がいない。それを楽しいと感じている」というものがございます。もし君主の言葉が正しくて、反対する者がいなければ良いでしょう。もし君主の言葉が間違っていて、誰も反対する者がいないのであれば、それはまさに短い一句で国家を滅亡させる原因となると言ってもよいのではないでしょうか」。

※浩→定公は、中年の孔子が魯の国務大臣であったころの君主です。定公との問答は、ここの他に「八佾(いつ)篇」に一箇所あります。そこでは、「定公問う、君臣を使い、臣、君に事(つか)うる、これを如何。孔子対(こた)えて曰く、君は臣を使うに礼をもってし、臣は君に事うるに忠をもってす」とあります。定公は、決して暗君ではなかったのですが、王族らしく、あまりにせっかちで、政治の効果を早くあげようとする傾向がありました。自分の頭脳を信頼して、家来の批判や忠言を聞くことを好まなかったそうです。定公の失脚はその結果だったと言える、と、貝塚茂樹先生の解説にあります。孔子の諫言を真摯に実行していれば、難を招くことはなかったでしょうに。
 また、吉川幸次郎先生の解説によれば、荻生徂徠は、「後代の人々は、複雑な現象に対し、えてして簡単な要約を求めたがるが、それは聖人の意ではない」と言ったそうです。孔子の言った「言は以て是(か)くの若くなるべからざるも、それ幾(ちか)きなり」は考えさせられます。ソシュールのシニフィアンとシニフィエを学びたくなりました。
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 フランス語で「シニフィアン」は「意味するもの(能記)」、「シニフィエ」は「意味されるもの(所記)」にあたる表現です。
 一般言語学を構想することでソシュールが引き受けた課題は、言語学の対象を再規定するということでしたが、彼は、言葉を「物の名前」ととらえる伝統的な言語観を批判します。この言語観では、一つ一つの語と対象とがそれぞれ独立して存在することが前提とされ 、言語はその既存の両項の間に打ち立てられる関係として考えられています。しかしながら実際には、ある記号がその記号であり、その記号が「これこれの意味を持つ」ということは、他の記号との“差異”によってはじめて定まり、言語記号は物のように実在するというよりも、むしろ心的な体系のうちで対立化された“差異の束”として実現します。言語記号は実質substanceというよりむしろ形相formeです。そしてこの差異の体系の中では、xでもyでもないものとしてのzという形で否定的に規定されたシニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)が同時に切り出される(野田先生は“切り取られる”)ことになります。これらはいずれも心的なものであって、物理的な音や指向対象(語によって指されている実在のもの)とは区別されなくてはなりません。またこの切り出しによって定まる、記号相互の関係は「価値valeur」、各記号におけるシニフィアンとシニフィエの関係は「意味作用signification」と呼ばれました。こうした考え方を通じてソシュールは、記号がすでに分節化された世界に付される単なるラベルではなく、世界の分節化そのものを支えるダイナミズムを秘めていることを示しました。
 脳が雲丹(ウニ)状態になりそうですが、さいわい、野田先生から教わったことをつなぎ合わせていくと、だんだん理解できるようになります。よくおっしゃったのは、「言葉は地図であって現場ではない」「言葉は月を差す指であって、月そのものではない」とかです。
 野田先生の昔の講演に「心理学における土着思想と反土着思想」というのがありました。その冒頭に、「創造的精神は常に批判的である」というエーリッヒ・フロムの言葉を引用されていました。臣下からの諌言(批判)を受け入れない独裁君主が失政することと通じます。現代の組織においても言えそうです。管理職がどこまで部下の意見を取り入れているでしょうか?

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