論語でジャーナル’26
20,子貢問いて曰わく、何如(いか)なるをかこれこれを士と謂うべき。子曰く、己れを行うに恥あり、四方に使いして君命を辱しめざる、士と謂うべし。曰く、敢えてその次を問う。曰く、宗族(そうぞく)は孝を称し、郷党(きょうとう)は弟(てい)を称す。曰く、敢えてその次を問う。曰く、言は必ず信、行は必ず果(か)、硜硜然(こうこうぜん)たる小人なるかな。抑(そもそ)も亦(また)以て次と為すべし。曰く、今の政に従う者は何如(いかん)。子曰く、噫(ああ)、斗肖(としょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らん。
子貢がたずねた。「どういう条件を持てば、士(優れた官吏)と呼べるでしょうか」。先生が言われた。「自己の行動に対して、その行動が羞恥を生むものであるかないかを吟味して、羞恥を生む行動はしない。四方の国々に使者として派遣されれば、出発の際に君主から受けた命令を十分に伝達して、それを辱めることがない。これが士と呼ばれる条件だろう」。子貢がまたたずねた。「その次に来る条件を教えてください」。先生は言われた。「親族一同から孝行者と呼ばれ、郷土の人々から年長者を敬っていると賞されることだ」。子貢はさらにたずねた。「またその次に来る条件を教えてください」。先生は言われた。「言葉に必ず偽りがなく、行動は果敢で迷いがない。ガチガチの小人ではあるが士とは言える」。子貢がさらにたずねた。「今の為政者はどうでしょうか」。先生は言われた。「ああ、升で量れるような器量の小さな小人ばかりで、数え上げる必要もない」。
※浩→子貢が「士(官吏)と言われる条件」について次々とたずねています。まず、羞恥を生む行動をしない。これは孟子になると「羞悪の心」としてより明確になります。外国に使者として派遣されたら、君命を正確に伝え、それを辱めることはしない。日本の「恥の文化」は、この影響を受けているのでしょうか。ルース・ベネディクトの『菊と刀』でそう言われています。キリスト教は「罪の文化」です。さらに、忠孝の徳や孝悌の徳を兼ね備えている者も士であり、固苦しい小人ではあるが、言葉に嘘偽りがなくて思い切った行動ができる者も一応士と言える。孔子はこのように丁寧に答えています。しかしながら、周時代の古礼にのっとった政治を理想とする孔子は、当時の政治家には見るべきものが少ないと考えていたようで、これはまことに、「現代」にも通じると思います。日本では古来、「世間に顔向けできない」とか「世間体が悪い」とか「人から後ろ指をさされないように」とか言って、自分の行動基準を「外側」に置いていました。つまり「恥をかくこと」を避けてきました。ということは、人が見ていなければ、露見しなければ、不道徳なことができるということになります。自分の内的な道徳心にもとづいて行動する人も必ず多数いらっしゃるでしょうが、そちらはほとんど目立たなくて、人目ばかり気にしていたようです。最近は、この「恥」さえも影をひそめて、まさに「破廉恥」の洪水です。日本人はお行儀が良いと言われたのは、昔のことになってきたようです。時代劇を見ていると、襖や障子の開け閉めのは、きちんと座って行なっています。これにはあらためて感動します。取り戻したい礼儀です。ですから、漫画の「サザエさん」が襖を足で閉めるシーンに笑えるのでしょう。