論語でジャーナル’25
支配層の権力争いのもとで、相次ぐ戦乱のため、常に生活に怯えざるをえない庶民にとって、「無為自然」「柔弱謙下」「謙下不争」の生き方は、なるほど現実的で、したたかな智恵であるようです。私たちが暮らす今の世の中も、「治世」よりはむしろ「乱世」と言ったほうがいいかもしれません。受験戦争、交通戦争、出世競争とかで、アドラー心理学が言うまさに「競合的」な社会です。野田先生は「狂気の社会だ」とおっしゃいました。「たくさん蓄えると、盗まれたりして失う危険に怯え」。職場で出世すると転落の危機に怯え、結婚して家庭を持つと、配偶者や子どもたちに裏切られ、“三界に家なし”のお父さん方にも、老子のしたたかな生き方は救いになるかもしれません。高いから崩れ、持つから失い、愛するから離別し、まことに「無為自然」がぴったり決まります。
「老子最終章」には次のようにあります。
信言は美ならず、美言は信ならず。善なる者は辯ぜず辯ずる者は善ならず。知る者は博からず、博き者は知らず。聖人は積まず。ことごとくもって人のためにし、己れいよいよあり、ことごとくもって人に与えて、己れいよいよ多し。天の道は、利して害せず、聖人の道は、なして争わず」。
真実味のある言葉は美しくなく、美しい言葉には真実味がない。本当に立派な人間は口が達者でなく、口の達者な人間は本物でない。本当の知者は物識りではなく、物識りは本当にはわかってない。無為の聖人はため込まない。何もかも他人のために出してしまうが、己れの所有はいよいよ増し、何もかも他人に与えて、己れはいよいよ豊かである。天の道は万物に恵みを与えて害を加えず、聖人の道はことを行なって人と争わない。
老子がこの最後の章で要約している無為自然の生き方(上徳)の「不美」「不辯」「不博」「不積」「不争」とは、言葉を換えれば「樸(質)」「訥」「無知」「無欲」「柔」ということですが、その中でも「「柔」つまり「不争」がこの章の最後に置かれて『老子』全体をしめくくっています。福永光司先生の解説からつまみ食いさせていただくと、老子の「無為」は「なすためのなさず」で、何もせずにただ寝そべっている怠惰を言うのではなく、人間がどのようにすれば本当の意味で「なす」ことができるかを求めたものです。人間の世界には本当でない「なす」が氾濫し、そのために争いが充ち満ちている。その争いの中で他人を欺き損ない、己れをもまた謀り傷つけている。彼は人間社会の争いの根源を人間の過剰な知と欲とにおいてとらえる。この知と欲との放恣を野放しにする限り、人間の社会から争いをなくすことは、木に登って魚を求めるようなものであろう。人と争わないために知と欲を捨てる。雄弁を退け朴訥を守り、文明の華美を退け、野鄙の質朴を尊ぶ。かなり強引にアドラー心理学を引っ張り出すと、「過剰な目標追求」をやめるということになるでしょうか。そういえば、「ボディーの欲(本能)」は「足るを知る」ので無害でしたが「マインドの欲」は果てしないので有害になります。ボディは動物的なもので悩むことはしない。欲求不満はあっても、それは「今ここで」のことであるにすぎず、くよくよ悩む材料にはならない。悩みはすべてマインドが作り出すトリックです。マインドは、自分をごまかし他人をごまかすために悩みを作り出します。悩みによって、ボディの目標追求と社会の要求との折り合いを付けようとします。その悩み方がひどくなって、現実には目標追求できていないのに、幻想的にできているような気になっている状態を「自己欺瞞」と言い、「神経症」と言い、「マインド・トリップ」と言います。例えば、「みんなの仲間でいたい」という目標(=所属)を追求しているのはボディの仕事です。しかし、「仲間がいなくなる」「友だちが離れる」ということに異常なくらい恐怖心を持っているのはマインドです。そうして奇妙な神経症症状を出して、幻想の中でだけ目標追求しています。この場合でも、幻想の中においてではありますが、マインドはボディに協力しています。しかもボディは永久に欲求不満です。マインドが悩んでいるときの解決法は2つあります。1つは、より巧妙なマインドを作り出そうとします。もう1つは、マインドを捨てて大きなものに「お任せ」するように勧めます。どちらを採ってもかまいません。こうおっしゃる野田先生は、「より巧妙なマインド」は、より問題を深くする気がするから、マインドを捨てて、しかもボディだけの動物レベルに還るのではなくて、「ハート(真の愛か)の目覚めた新しいレベルに進むように、人々に勧めています。「老子最終章」を読んで、かえって野田先生のお考えが深く納得できたような気がします。長々とおつきあいいただきありがとうございました。