論語でジャーナル’26
23,子曰く、南人(なんじん)言えること有り。曰く、人にして恒(つね)なければ、以て巫医(ふい)を作(な)すべからずと。善いかな。その徳を恒にせざれば、或いはこれに羞(は)じを承(う)く。子曰く、占わざるのみ。
先生が言われた。「南方の人間が、『恒常性のない人は、祈祷師や医師も手のつけようがない」と言っていた。これは良い言葉である。(古来の諺にも)『行動に恒常を欠く者は、恥辱を受ける』という言葉があるではないか」。先生が言われた。「行動に持続性がないのだから、未来の吉凶を占いうる対象にはならない」。
※浩→ここは古注と新注とで、甚だしく解釈が異なります。吉川幸次郎先生は古注で、貝塚茂樹先生は新注で解説されています。その対比が面白いです。私は、ここは簡潔に古注に則った吉川先生に従います。
「南方」については、新古ともに、ただ「南国の人」と漠然と述べているだけですが、貝塚先生が詳しく説明されていますので、これはこちらいただきます。孔子の時代の魯の国は、長江の南の呉や越とはすでに交渉を持っていましたが、それらの国は東南方向で「東方」の国と見られていたようです。したがって、ここで言われる「南方」は、武漢地方の「楚」を指すのではないかということです。
行動の恒常性というと、アドラー心理学では、目標追求する「ライフスタイル」という概念を想起させます。さらに、人間の行動に「冗長性」という特徴を見出します。両方を詳しく説明すると長くなりすぎますので、ここでは、耳新しい「冗長性」だけ取り上げてみます。野田俊作先生が2017年に残してくださった資料から引用させていただきます。
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ある1つのエピソードは、子ども時代からずっと繰り返されている《冗長性》(哲学では《構造》)の一部分だ。
クライエントの話の中には「困った人」が出現する。なぜ「困った人」が出現するかというと、クライエントのある《冗長性》が「困った人」を作り出すからだ。例えば、長子は家の中で起こることのすべてを知っていたい人が多いのだが、末子はそうでもない。だから末子は、長子が喜ぶだろうと思って、長子に内緒で親と相談して、長子へのプレゼントを決めたりする。長子は、自分に内緒で相談されたことを、逆に言うと自分を除く全員が知っていて自分だけが知らないことを、ひどい侮辱だと感じて怒り出す。しかし末子は、なぜ長子が怒るのか理解できない。つまり、末子にとって長子は「困った人」に見える。しかし、それは末子が長子を理解しないで勝手に行動した結末であって、少なくとも末子を主役にしてサイコドラマをする限り、長子には何も問題はなく、末子の「見落とし」に問題があると読み解かなければならない。
そう思ってエピソードを「味わう」。そうすると、聴くべき追加情報がわかる。そういうことを考えないで、何はともあれ追加情報を集めようと思って聴き始めると、無駄な情報を山ほど集めて、時間が無駄に経っていく。かといって追加情報を何も聴かないでドラマに取りかかると、問題の核心部をはずしたドラマになって、その事件については有効かもしれないが、《冗長性》と関係のないところで仕事をしているかもしれないので、他の事例には無効かもしれない。
エピソード分析をするのは、《冗長性》を証明するための1つの方法だ。ということは、分析を始める前に、クライエントの《冗長性》について、ある程度の見通しがついている必要がある。そこまでは「エピソード」を味わい、必要な追加情報を聴取し、その上で、どの《対処行動》を選ぶかを決めもするし、《仮想的目標》についても、あるいは《私的感覚》についても、推量した《冗長性》と関連づけながら考える。そうすると、クライエントから見ても聴衆から見ても、うんとわかりやすい芝居になるはずだ。
アメリカでアドラー心理学を習ったとき、モザク先生から《推量 guessing》ということを教えていただいた。曰く、「他派の心理学は、現在の問題についての情報を集めて、それから既往歴や発育歴や家族歴を聴いて、これまでのカウンセリング歴を聴いて、それでもまだ足りなくて心理テストをして、すべての結果が出るまでは動き出さない。これに対してアドラー心理学は、1つの話を聴いたら、そこから推量できることを推量し、その推量にもとづいて足りない情報を聴き取る。それはちょうどジグゾーパズルのようなもので、全体の構図を見て足りないピースが何かを見定め、その内で、それをはめ込むと最も情報の増分が多そうな部分を聴く。それをはめて、まだ全体が見えなければ、もう1つ情報を聴く。そうして、全体の構図が推量できるところまで行ったら、できるだけ早く治療操作に取りかかる」ということだ。
未熟な治療者は臨床現場でケロッと《推量》のことを忘れて、重要なピースが欠けたままで治療操作に取りかかったり、どうでもいいピースをたくさん集めたりする。サイコドラマでは、聴衆もいるし、芝居らしく仕上げないといけないし、時間に追われることもあるし、クライエントからエピソードを聴いて、それだけで動き出す人が多い。エピソードを聴き終わったら、一度立ち止まって、構図全体を眺めてみるのがいい。
構図は、空間的なものと時間的なものがある。空間的というのは、例えば話に登場していない家族メンバーであり、例えばクライエントや相手役の職業だ。妻が主役で相手役が夫の事例があって、妻が夫に子どもの歯磨きを頼んだら、夫は引き受けてから、「そうだ、爪切りしよう」と言って、爪を切り始めた。この話を聴いて、夫は理系だろうと私は《推量》した。それでたずねてみたら、やはりそうだった。それがわかると、多くのことがわかる。たとえば妻は、「爪切りが済んだら、歯磨きをお願いね」と言っておけば、それでいい。理系の仕事ってそういうもので、そういうことに順応できる人だけが楽しんで理系の仕事をできる。
時間的な構造は、冗長性がある限り、今の相手役とは違う人に対して、同じ構図のやりとりをしたことがあるはずだし、それを遡っていくと、子ども時代の出来事にまで遡れるはずだということだ。あるいは、現在は破壊的に働いている冗長性が建設的に働いている場合もあるはずだ。実際にそうして別のエピソードを引っ張り出さなくても、同じ冗長性が建設的に使われたり破壊的に使われたりしていて、どういう条件があれば建設的になり、どういう条件があれば破壊的になるのか、推量してみる必要がある。そうして最小必要なことを聴き取る。
アンスバッハーは、アドラー心理学は《深層心理学 depth psychology》というよりは《文脈心理学 context psychology》だと言っている。つまり、現在のエピソードは、大きな《物語》の一部であって、しかもその《物語》には単調な《冗長性》があるので、《物語》の文脈の中に当てはめれば、現在のエピソードの意味は読み解けるということだ。
私は、小説を読むときも、ストーリー展開よりもむしろ論理展開を読む。《論理》とここで言っているのは、「AであればPであるし、AでなければQである」というような文章の《型》のことだ。たとえば、昨日、「妻が夫に子どもの歯磨きを頼んだら、夫は引き受けてから、『そうだ、爪切りしよう』と言って、爪を切り始めた」という事例をあげた。この場合、妻が夫に子どもの歯磨きを頼んだら、P)すぐに取りかかる場合と、Q)すぐに取りかからないで、例えば「そうだ、爪切りしよう」などと言う場合とがあるはずだ。このPの場合は「Aである」場合であり、Qの場合は「Aでない」場合のはずだ。じゃあそれは何かと考えたら、夫から見て、Aは「子どもがすぐには歯磨きにとりかかりそう」な場合であり、そのときは「Aでない」と判断したのだろう。だからP[すぐに歯磨きにとりかかる]代わりにQ[自分の爪を切る]という行動を選択したのだろう。そこには夫の《私的論理》がちゃんとあったはずだと考える。
アドラー心理学は、すべての登場人物がみずからの《私的論理》で行動していると考える。それはその人なりに筋の通ったものなのだが、相手役から見ると筋が通っていないように見えることがあって、それでトラブルが起るわけだ。治療者は、そのおのおの登場人物の筋、すなわち《私的論理》を見破る必要がある。そのためには、おのおのの人の行動の《部品》ではなくて《構図》を見る力を養わなければならない。
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うーん。まだ脳がウニ状態になりますが、読み返すとだんだん理解できそうです。これまで断片的に学んだことがここに詰まっているように思えますから。