論語でジャーナル’26
23,子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
先生が言われた。「君子は、他人と心から一致するが、うわべだけの同調はしない。小人はうわべだけ同調するが、心から一致することはない」。
※浩→ここは有名です。短いし、すぐ暗記できます。君子の交友のあり方がシンプルに説かれています。君子はそれぞれに主体性を持ちつつ、人々と調和するが、小人はその逆である。「和」と「同」の違いについては、吉川幸次郎先生が『左伝』の「斉の景公と晏嬰(あんえい)の問答」をを引いて詳しく解説されています。
狩猟から帰ってきた景公が首相の晏嬰と遄台(せんだい)でくつろいでいると、佞臣(ねいしん)の梁丘拠がやって来た。景公は梁丘拠を指さしながら、「あの男は私と和する」と言った。晏嬰は「あの男は“同”であって、“和”ではありません」と言い、さらに説明しました。「和」とは、例えば、吸い物が、水、火、醤油、塩、梅酒と、魚肉との調和であるごとくである。それに対し、「同」とは、水に水を足し、また琴の絃(いと)の同じところばかりを叩くようなものであって、なんら建設的でなく、生産的でない。あの男は、あなたの意見がいかようであれ、すぐにそれに賛成する。だから“同”であって“和”ではない。“和”というのは、二つの異なる心を持った人間が、心から打ち解けて友になることです。ちなみに私が勤務したことのある高梁工業高校の校訓は「自律友愛」でした。これは世界平和にもつながるカントのフレーズです。
SNSに投稿して、「いいね!」をもらえないと落ち込む人が増えて問題になっていると、報道されたことがありました。これなど主体性のなさの典型のようです。他人の評価で自分の幸不幸が決まる。自分の幸福のスイッチを握っているようで、どこに主体性があるのでしょうか。「主体的に他人に任せている」と言うかもしれませんが、これは詭弁です。アドラー心理学理論の基本前提のトップが「個人の主体性」です。キルケゴールの実存主義哲学でも、「主体性が真理で、客観的な事実を知ったところで、それが何になろうか」と言われています。ヘーゲル哲学の弁証法は「あれもこれも」タイプの量の弁証法で、キルケゴールは、「あれかこれか」主体的に選択・決断することの重要性を説く、質の弁証法を説きました。校訓をいくつか思い出しました。自分が生徒だった学校で覚えているのは中学校です。岡山市立丸の内中学校は「勉学・品位・耐乏」です。勤務校では、岡山工業高校が「誠実勤勉」で、スクールカウンセラーを務めた津山工業高校は「至誠敢行」でしたか。「誠」という文字は日本人好みでしょうか?昨今、「人を騙す」犯罪が激増していますから、この語を空文化してはいけないと思います。どこで間違えたのでしょうか?