論語でジャーナル’25
7,子曰く、束脩(そくしゅう)を行うより以上は、吾れいまだかつて誨(おし)うることなくばあらず。
束脩(細長い干し肉の1束=一番軽い謝礼)でも、それを持ってきた以上は、私は常に何かを教えてやらないということはない。それ以上ならなおさらである。
※浩→おやおや、久しぶりに『論語』に戻ったら、これは何だ?孔子は教えを請いに来た人に謝礼を要求しているのだろうかと一瞬思いました。「無償の愛」と言いますが、「無償」のボランティアは美しい行為だとしても、人から教えを受けるにはそれ相応の「支払い」をするのが当たり前だということのようです。タダでは図々しい。古代ギリシャ、プラトンのアカデメイア(学園)の入り口には、「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」とあったそうですが、授業料は必要だったのでしょう。お釈迦様の説法を聞きに集まった衆生も、タダでは聞いていなかったのでしょう。そういえば、昔、映画会社の大映が日本で最初の70ミリの映画を作りました。本郷功次郎さん主演の『釈迦』でした。本郷功次郎さんは岡山市の出身で、実家は天満屋近くの電車通りに面した金物屋さんでした。釈迦が鬼子母神を改心させたあとのこと、大きな殿堂で大勢の人々に説法をするシーンがありました。集まる人々はそれぞれにお灯明用の油を持参しましたが、北林谷栄さん扮する貧しい老女は、わずかばかりの持ち合わせで油を買おうとしますが、油屋に「これでは売ってやれない」と断られます。仕方なく、彼女は自分の髪をバッサリ切って、それを添えてようやくわずかの油を手に入れて、殿堂の片隅に小さな灯りを献じます。説法が佳境に入ったころ、釈迦のライバルのダイバダッタが妖術で風を起こしたのでお灯明のすべてが消えますが、老婆の献じた小さな灯りだけが消えないで灯り続けます。宗教の世界でさえ、タダで教えを請わないのですから、学問の世界では授業料がいるのは当然でしょう。
カウンセリングではどうでしょうか?アドラー自身について言えば、彼はウィーンのカフェテラスで「オープンカウンセリング」をしました。終わると、お弟子さんが見物衆に帽子を回しますと、人々はそれぞれの都合でいくらかの「謝金」を帽子に入れました。決まった料金はなかったようですが、無償ではありません。帽子が来たら、ニッコリしてお金を入れないで次へ回した人もいたかもしれませんが(笑)。私が関係する学校関係のカウンセリングは、すべて無償です。カウンセラーにはもちろんお給料が出ますが、それは県から出ますからもとは税金で、間接的には県民が払っていることになります。でも、クライエント自身は支払いません。この構造は、相談する人は無償で、その費用をその人以外の県民が支払っていることになります。お薬だって「タダ」だと効き目を疑いますが、高額なものだとそれだけでも信じられそうです。無料のアドバイスだと値打ちがなさそうです。日本では、伝統的に、お金を払って相談するという風習がなかったようですが、これが甘えや無責任の温床になっているのかもしれません。ましてや、匿名の電話相談とか、最近流行のSNSでの相談では、相談者は正体を明かさないのですから、どんな人だかまったくわかりません。会いもしないでどうしてその人がわかるでしょうか。事態のとらえ方も問題意識もその解決法も個性的で、人それぞれに違うでしょうから、電話やSNSで「一般的な解決法」を伝授されても、それで問題が解決するとは思えません。電話等は本来、事務連絡手段で、予約を入れたり変更したりするためのものです。深刻な真剣な内容は、直接会わないと駄目でしょう。坂本龍馬なんか、あの時代に、大事な話をするには、江戸へも京都へも越前へも薩摩へも歩いて行きました。1990年代に、野田先生は岡山市内のお寺で「オープンカウンセリング」をなさいました。毎月第二土曜日の午後1時~4時まで4ケースを公開(見物人つき)でなさいました。当時の相談料は8000円でした。結構高額でした。見物料は1ケース1000円です。私たちは、野田先生のカウンセリングのワザを盗むために、毎月4000円を払って、かぶりつきで見学しました。アドラー心理学の大先輩の鎌田穣さんが「クライエントの責任」という論文を書かれたそうですが、こういうのはあまり話題になりません。