論語でジャーナル’26
3,子路曰く、衛の君、子(し)を待ちて政を為さしむれば、子将(まさ)に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。子路曰わく、是(これ)有るかな、子の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其れ正さん。子曰わく、野(や)なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて蓋闕如(かつけつじょ)たり。名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず、事成らざれば則ち礼楽興(おこ)らず、礼楽興らざれば則ち刑罰中(あ)たらず、刑罰中たらざれば則ち民手足を措(お)く所なし。故に君子はこれに名づくれば必ず言うべきなり。これを言えば必ず行うべきなり。君子、其の言に於いて苟(いやし)くもする所なきのみ。
子路がおたずねした。「衛の殿様が先生をお引き留めして、政治を任されることになったら、何から手をつけられましょうか」。先生が言われた、「何よりも混乱した名目を正しくしたいね」。子路が言った。「これだから困りますよ、先生の迂遠なのには。よりによって、何を正しくされるというのですか」。先生が言われた。「相変わらず野蛮だな、お前という男は。君子は自分のよくわからないことは知らん顔をしているのものだ。名目が正しく立っていないと、話の筋が通らない。話の筋が通らないと、政治が成功しない。政治が成功しないと、裁判が公平でなくなる。裁判が公平でないと、国民は手足を伸ばして休息することができない。だから、君子は何かに名をつけるとき、言葉ではっきりわかるようにし、そしてそれを発言すれば、必ず実行できるようにする。君子は何か発言するにあたって、軽はずみなことはしないのだ」。
※浩→子路と孔子の議論を取り上げた章ですが、孔子が国を治めるのにまずは「名目をしっかりと正すこと」を主張したのに対し、弟子の子路が「先生のやることは、相変わらず遠回りですね」と反対意見を返しています。しかし、孔子は「相変わらず野蛮だ」とやさしく叱った上で、「なぜ、名目の正しい定義が必要なのか?」をとてもわかりやすく論理的に解説されます。ヤンチャな子路がかわいいことがよくわかります。そして最終的に「人民の権利を守るためには、君子が有言実行を貫いて名目・言葉を正さなければならない」と説得しています。そう言えば、野田先生は、「信頼を得るには、『言ったことは必ず実行し、実行できないことは初めから言わない』ことだ」とおっしゃっていました。
孔子は、前493年に魯を逃げて衛に亡命しました。霊公39年(前496年)秋、太子の蒯聵(かいがい)は霊公の夫人である南子と折り合いが悪く、南子を殺そうとしました。蒯聵は朝礼の際、仲間の戯陽遫(ぎようそく)に殺させようとしましたが、戯陽遫がためらうので蒯聵はしきりに目配せしました。そうしているうちに南子に気づかれて、父の霊公に知らされ、蒯聵は宋に出奔したのです。霊公42年(前493年)、蒯聵が宋の次に晋の趙氏のもとにいたため、霊公は代わりに子の郢(えい)を太子にしようとしたが断られて、その4月に薨去(こうきょ:皇族または三位(さんみ)以上の貴人の死去すること)してしまった。霊公夫人の南子はふたたび郢に太子になるよう頼みましたが、やはり断られました。そこで郢は蒯聵の子である輒(ちょう)を勧めたため、輒が立って衛公(以後は出公と表記)となりましたった。6月、晋の趙鞅(趙簡子)は蒯聵を衛に入れようとして彼を帰国させた。これを聞きつけた衛は出兵して蒯聵を迎え撃ち、蒯聵は入国できず宿(せき)に入って立てこもります。出公13年(前480年)秋、晋の趙鞅が軍を率いて衛を攻撃しました。孔圉(こうぎょ:孔文子)の没後、孔氏の侍童(貴人のそばに仕える少年。小姓。モーツアルトのオペラ『フィガロの結婚』に登場するケルビーノを連想します)である渾良夫と孔圉の妻である伯姫(蒯聵の姉)が不義密通しました。そこで伯姫は渾良夫を宿(せき)にいる蒯聵のもとへ遣わしました。蒯聵は2人の婚約を認めるとともに、自分を衛に戻すよう頼みました。蒯聵と渾良夫は孔氏の邸に忍び込み、伯姫とともに蒯聵即位を迫ったのですが、この騒ぎを聞いた孔氏の家老の欒甯(らんえい)はすぐさま出公を連れて脱出しました。その直前に食客の子路から「太子は何ゆえ孔悝(孔圉と伯姫のあいだの子で蒯聵の甥)を重用されるのです。仮に彼が殺害されても、その代わりはいくらでもいますぞ」と諫言したましが、激怒した蒯聵は家臣に命じて、子路を誅殺しました。こうして蒯聵は孔悝によって立てられて、衛君(以降は荘公と表記)となったのです。子路の死を知った孔子の嘆きは、前に書きました。
長い解説をごく簡略にすると、「名(言葉)と実(実在)とが一致することが必要だ」ということです。衛から亡命していた父の蒯聵と、祖父・衛霊公の遺命によって即位した出公・輒とに、それぞれ妥当な「名」つまり称号を与えることによって、内乱を解決しようとしたのです。