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スレッドNo.278

論語でジャーナル’26

7,子曰く、魯衛の政(まつりごと)は兄弟(けいてい)なり。

 先生が言われた。「魯と衛の政治は兄弟のようなものである」。

※浩→魯の先祖・周公旦と衛の先祖・康叔は、ともに周の「武王」の弟です。魯国を亡命した孔子は、衛国に滞在し、君主や政治家、学者とも親しく交わったので、衛国の事情を手に取るように知っていました。魯も衛も、政治は混乱をきわめていましたが、歴史を遡ると先祖は兄弟で、同じように「周」の文化に浴していました。孔子は、現実の魯・衛から、周の盛時を回想して嘆息したのが、「魯衛の政は兄弟なり」という言葉であったと、新注は解釈しています。「周」の封建制度というのは、周王が一族や功臣、地方の有力な土豪を諸侯として、一定の土地と人民の支配権を与え、統治したシステムを言います。ヨーロッパ中世の封建制度は、血縁でなく1対1の双務契約的な関係からなり、複数の主君に仕える家臣も少なくなかったです。「周」では、諸侯に与えられた地域を「国」といい、諸侯を封(ほう)じて(土地と人民を与えて)国を建てることが「封侯建国」であり、その略語が「封建」です。諸侯は国を支配し、国内の土地を一族や臣下に分与しました。周王と諸侯、諸侯とその家臣である卿・大夫は、擬制的な血縁関係にあり、その基盤には血縁的な宗族によって結びついている氏族社会がありました。同じ親から生まれた兄弟が各地に封じられたのです。兄弟仲がよければトラブルにはならなかったでしょうが、アドラー心理学で言う「きょうだい競合」を考えると、なかなか困難なことであったでしょう。
 日本で兄弟仲が良かったのは、豊臣秀吉とその弟秀長でしょうか。奇しくも今年のNHK大河ドラマが「豊臣兄弟」です。兄・秀吉とは3歳差で、父親が同じなのかどうかについては、はっきりしていません。歳の近い兄弟でしたが、秀吉が十代半ばで家を飛び出したせいか、幼少期のエピソードはないようです。再会するのは秀吉がねねと結婚したあとの永禄五年(1562年)のこと。秀吉が家を出てから、だいたい15年ぐらいあとの話です。秀吉の正妻ねね(寧々・北政所・高台院)は賢夫人で、女癖の悪い夫をどう操作したのでしょうか?秀長は兄が来るまでは、百姓として田畑を相手に暮らしていたようです。22歳になっていたはずですから、当時の社会通念では、とっくに妻を迎えて、子どもの2~3人いてもおかしくないところ。しかし、秀長にはどちらもいませんでした。これがのちに、彼や豊臣家の運命を左右することになります。このころ、秀吉は足軽組頭となり、数十人程度の部下を持っていました。元が百姓であること、何のコネもなかったであろうことを考えれば、これだけでも相当な出世と言えます。しかし、もっと上を目指すのなら、信頼できる家臣を一人でも増やさねばなりません。そこで真っ先に候補に上がるのは血縁者です。秀吉には男きょうだいが秀長しかいなかったので、召し抱えにやってきた……というわけです。
 秀長は若いころから温厚な人だったようで、秀吉の部下たちともすぐに打ち解けました。大所帯になると、とかく揉め事が起きやすいもの。ちょっとしたケンカや禄(給料)への不満など、些細な不満が積もり積もって大爆発……などという話は、枚挙に暇がありません。個々人の感情のぶつかり合いは防げませんが、禄に対する不満は主人が解決してやれる可能性があります。給料が高ければ高いほど喜ぶのは、戦国人でも現代人でも同じです。秀吉も秀長もそれをわかっていました。秀吉はエネルギッシュに立ち回って、戦功を挙げて信長から少しでも多く禄をもらい、家臣に分け与えるために、しゃにむに動かねばなりません。調略や工作などで、留守にすることも珍しくなくて、細かいところに目が行き届かないことも多々あったでしょう。そういうところのサポートをしたのが秀長であり、この構図は、生涯ずっと続きました。
 「太平記」の足利尊氏と直義は、非常に仲の良い兄弟でした。尊氏は政務を直義に任せ(但し、軍事指揮権や恩賞授与の権限は尊氏が保持していたと言われます)、直義のことを想う願文を奉納するほどです。しかし最後には対立してしまいます。その原因は、直義は北条泰時の時代を理想として政治を行い、足利氏の一門を重用したため、これに不満を抱いた高師直(こうのものろお=歌舞伎の仮名手本忠臣蔵では吉良上野介をこう呼ぶ)を筆頭にした外様(とざま)の武将たちが尊氏のもとに集まったことが1つです。本人たちを取り巻く周囲の環境が2人の関係を破壊してしまったということのようです。
 同じく忠臣蔵の赤垣源蔵は、討ち入り直前に、兄宅を訪れて心で別れを告げるつもりでしたが、あいにく留守で、やむなく、徳利に兄の羽織を被せて、それを前に、別れの杯を交わします。そして、翌朝が、本懐を果たした義士たちの引き揚げの行列です。この感動的なシーンは、三波春夫さんの長篇浪曲歌謡「赤垣源蔵」で歌い上げていました。今は、若手の三山ひろしさんが歌っていて、三波さんの雰囲気そっくりです。

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