論語でジャーナル’25
9,子、喪(も)のある者のかたわらに食すれば、未だかつて飽かざるなり。子、この日において哭(こく)すれば、則ち歌わず。
先生が喪中の人のそばで食事をされるときは、決して腹一杯になるまで召し上がらなかった。お葬式で声をあげて泣かれると、1日中歌を歌われなかった。
※浩→貝塚茂樹先生の解説によれば、中国では古代でも喪の礼は重要視され、服喪の仕方、期間などについて詳しく決めているが、とかく形式的になる傾向があった。弔問や葬式で大声を上げて哭するのが礼であるが、形式化していたので、弔問から帰ると、平気で歌を歌ったりする者が多かったらしい。孔子のこの行動は、こうした形式化した喪の礼に対して、真の人情をもととしたものである。春秋時代では凡人のなかなかできない行為であったらしい。
とあります。
孔子の時代にすでに「礼」は形式化していたのです。そこで彼は、内面に「仁」の心があって、それが外に現れたものが「礼」でないといけないと唱えました。昨今の日本では「仁」はおろか、形式的な「礼」さえほとんど見られなくなりました。もちろん自分の関与しているエリア内のことで、知らないところではきちんと行われているかもしれませんが。非礼・傍若無人・身勝手・ジコチュウ・下品・不道徳・競合的……と枚挙にいとまがありません。大哲学者カントは、道徳的行為は「善意志」にもとづくものでなければならないと唱えました。何となく孔子の「仁」と通じるものがあるようです。「善意志」というのは、カントによれば「絶対的善」だそうです。カントの定言命法は「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というもので、これはアドラーの共同体感覚に通じるようです。心がともなわない形だけの礼は偽善だと言われます。私は、母の“やさしくきっぱり”した躾けのおかげで、小さいころから、まあ礼儀正しいほうだったと思います。知り合いに会ったらきちんと会釈するとか、おうちにあげてもらうときは、靴をきちんと脱いで向きを逆向きししておくとか、外出のときはハンカチ&ちり紙(今のティッシュ)を必携し、挨拶言葉はそれぞれのタイミングできちんと言うとか、お世話になったら必ずお礼をするとか、たとえつぎあての服でもきちんと洗ったのを着るとか……。「きちんと」というのが基本フレーズのようです。「きちんとすべき」は「ライフスタイル」になっています。
葬式で号泣するという中国の「礼」については、『三国志』で諸葛孔明が、赤壁で共闘した呉の将軍・周瑜の葬式で、朗々と弔辞を読み上げて満座の中で号泣するシーンがありました。見たようなことを言いますが(笑)。赤壁の戦いで魏の曹操を追い払ったのち、共闘した劉備元徳軍を好ましく思わなかった呉のお歴々の控える葬式での、孔明のこの徹底した「礼」の行為に、呉のお歴々の疑いが消えるという結末になりますが、これはどう見ても、孔明の策略ですね。持病持ちの周瑜が憤死するように仕向けたのは孔明ですから。孔子が知ったら苦い顔をするかもしれません。
1990年代後半の野田先生のある論文から引用します。
引用→「人間の行動の目的は、結局のところ私利私欲だ」と言い表したことがあります。どんなに善行を行っているときにも、その目的は私利私欲から決して離れることがありません。だから、心についてヴィパッサナ瞑想(瞑想座りして50分間を呼吸だけに意識を集中する瞑想)をしていると、「心は貪(とん=欲望)・瞋(しん=怒り憎しみ)・痴(愚痴)である」と知ることはあっても、「心は貪(あるいは瞋・痴)を離れている」と知ることなど、実はないのです。
悪を行なっているとき、心が貪・瞋・痴にまみれていることを知るのは簡単です。しかし、善を行なっているときにも、心が同じように貪・瞋・痴にまみれていることを知るのは、そんなに簡単ではありません。「私は善いことをしている。他者の利益のために行動している。だから私利私欲を離れている」と思い込みやすいのです。
そう考えてきて気がついたのですが、アドラー心理学を学んでもまったくモノにならない人たちは、どうも自分のことを善人だと思っているようなんですよ。その人たちは、「私は善いことをしているもんね」だの、「私は何も悪いことなんかしていないわ」だのと思っているようなんです。
仮にある行為がたまたま他者の利益になっていたとしても、その行為の目的が自己中心的で利己的であることには、何も変わりがありません。他者の利益になっているのは「たまたま」でしかないのです。それはちょうど、ドロボウが入って家中をかきまわしてくれたおかげで、なくなったと思っていた写真が出てきたとか、そんなことです。お金のほうはすっかり持っていかれたんだけれどね。
「結果として他者の利益になるならそれでいいじゃないか」とおっしゃる方はしあわせです。そういう方には瞑想はいらないし、アドラーが言う《自己欺瞞》の中で、一生何も問題を感じないで暮らせるでしょう。もっとも、そのような人の行為は、たまたま他者の利益になることもあるかもしれないけれど、ほとんどの場合はきわめてはた迷惑です。それは、その人たちは、「私は善人だ」と思い込んでいるために、自分の行為の目的や結果を見届けることをしないからです。
問題児の親ってそうでしょう。「子どものために」と思って、子どもに迷惑をかけ続けるのです。彼らは、実は子どもを援助しているのではなくて、自分の課題を子どもに肩代りさせているだけなんです。でも、そのことを知りません。そのことに気がつけば、真に子どもを援助できる親になれるのですが。彼らが自分のことを「よい親だ」と思っている限り、彼らは子どもを疎外し続けます。彼らが善人である限り、彼らは善行だと思い込みつつ悪行を続けます。悪人は往生するかもしれないけれど、善人は往生できるかどうか。
私がこれまでに犯した悪業は
すべて始まりもない貪・瞋・痴による
身・語・意のおこないによっています
いま私はすべてを告白します(引用終わり)