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スレッドNo.37

論語でジャーナル’25

11,子曰く、富(ふ)にして求むべくんば、執鞭の士といえども、吾これをなさん。もし求むべからずんば、吾が好むところに従わん。

 先生が言われた。「富(とみ)がもし正当な道で手に入れられるならば、鞭をふるう御者にだって自分もなるだろう。もしも正当な道で手に入れられないならば、自分の好みに任せて仕事をするだろう」。

※浩→いろいろ解釈があるようですが、吉川幸次郎先生のがシンプルでわかりやすいです。 富というものが追求してもよいものならば、それを獲得する手段として、執鞭の士、馬の別当である足軽、そうした卑しいとされる役目でも、私は甘んじて勤めよう。しかしもし、富というものが追求さるべき条件を持たないとするならば、私の生活の自由を保持して、好きなように生きたい。理想のために生きたい。
 孔子は富貴自体が追求に値しないとは考えていない。「里仁篇」で「富と尊きは、これ人の欲するところなり、その道をもってせざれば、これを得るも処らざるなり」と言っています。日本で言う「悪銭身につかず」に通じそうです。
 『徒然草』第三十八段には、「名利(みょうり)に使はれて、閑(しず)かなる暇(いとま)なく、一生を苦しむこそ、愚かなれ。財多ければ、身を守るにまどし(まづし)。害を買ひ、累(わずらひ)を招く、媒(なかだち)なり。身ののちには金(こがね)をして北斗を柱(ささ)ふとも、人のためにわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑うは、すぐれて愚かなる人なり。
 埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人やはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生まれ、時に逢へば、高き位に昇り、奢(おごり)を極むるものあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時にあはずしてやみぬる、また多し。偏えに(ひとえに)高き官(つかさ)・位を望むも、次に愚かなり。
 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉れも残さまほしを、つらつら思へば、誉れを愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る(そしる)人、世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰(たれ)をか恥ぢ、誰にか知られんことを願はん。誉れはまた毀(そし)りの本なり。身ののちの名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
 但し、強(し)ひて智を求め、賢を願ふ人のために言わば、智恵出でては偽りあり、才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。マコトの人は、智もなく、徳もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
 迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆(みな)非なり。言ふに足らず、願ふに足らず」。
 はて、高校の「古典」で習ったけど、こんなに長かったとはビックリです。冒頭部分は暗記していましたが、あとは今初めてお目にかかるような気がします。後半は「老子」の思想が取り込まれているようです。
 人間にとって、「名誉・利益」の2つに翻弄されて、閑暇というものがなく、長い生涯を苦しみ続けることは、まことに愚かなことである。
 この2つの欲望のうち、利益について考えると、あまりにも財産が多いと、それを守ることに懸命で、自分の身を守ることがおろそかになるものである。多くの財産は、他人からの危害を自ら求め、難儀を招き寄せる媒介物なのである。自分の死後には、金を積み重ねて北極星を支えるほどあっても、それはかえって、あとに残った人にとって、迷惑な物と思われるであろう。愚かな人の目を喜ばせる快楽というものも、またつまらないものである。例えば、大きな車や、肥った馬や、金や玉の装飾のごときも、物の道理をわきまえた人は、何ともひどく、愚かなものと見なすことであろう。黄金は山に捨て、宝玉は淵に投げ捨てるのがよい。このように考えてくると、物質上の利益に迷うのは、特に愚かな人なのである。
 もう1つの欲望である名誉について言うと、いつまでも埋もれることのない名声を長い後世まで残すことを、誰もそうありたいと願うことなのであろうが、しかし、位階が高く、高貴な身分の人だけを、すぐれた人と言うことができようか。なぜならば、愚かで劣っている人でも、よい家の生まれであり、運のよい時にめぐりあえば、高位に昇り、贅沢のありったけをし尽くすこともあるのである。これに反して、昔から、非常にすぐれた賢人・聖人が、自分は低い位に甘んじていて、また運のよい時世にめぐりあわないで終わってしまったことも、これまた多いのである。こう考えると、一途に高位高官を欲しがることも、物質上の利益への欲望に次いで愚かなことなのである。
 以上のような世上の名誉欲ではなくて、智恵と心の2つが、特に世間一般よりもたちまさっているという名声をも残したいものであるが、よくよく考えてみると、名声を大切にするのは、世人の評判を喜ぶことである。しかし、その誉めてくれる人も、また、悪く言う人も、ともどもに、いつまでもこの世に生存するものではない。名声を他人から伝えられて聞く人も、またすべて、たちまち世を去ってしまうであろう。こうした中で、自己の名声を誰に対して恥じ、また、誰に認められることを願うものであろうか。その上にまた、自己の名声は、他人から悪口を言われる原因なのである。こう考えてくると、死後の名声というものは、残っても、少しも自分のためにはならないものである。したがって、智恵と心とが世間一般よりたちまさっている名声を望むのも、高位・高官を欲しがるに次いで愚かなことなのである。
 ただし、世間の評判のためではなくて、ただひたすらに、智そのものを得たいと思い、賢そのものになりたいと思う人のために言うならば、その智恵が発達することで人間の虚偽が生じたのであるし、賢い才能というものも、人間の煩悩が発展・拡大したものである。いったい、他人から伝えられたのを聞いたのや、他人に学んで知ったのは、本当の智ではないのである。そこで、いかなるものが智であると言うことができるか。世の中で可と言い不可と言っても、はっきり区別できるものではなくて、ひとつながりのものなのである。またいかなるものを善と言うのであるか。以上述べたような、人間の相対的な境地を超越した、まことの人には、人間的な智もなく、徳もなく、功もなく、名声もないのである。このまことの人は、自分の徳を隠し、愚者のごとくに身を保つのではない。もともと、賢愚・利害というような、人間の低い境地にいるのではないからである。
 人間が、自分の迷った心で、名誉や利益を追求すると、以上のようなことになる。欲望の対象となすすべてのことは、みな否定されるべきものなのである。したがって、言い立てるにも及ばないし、また、得たいと願うにも及ばないものである。
 「諸行無常」の仏教思想や、「無為自然」の老荘思想が随所に感じられます。(つづく)

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