論語でジャーナル’25
13,子、斉(せい)に在(い)まして韶(しょう)を聞く。三月、肉の味を知らず。曰く、図(はか)らざりき、楽(がく)をなすことの斯(ここ)に至らんとは。
先生が斉の国にいらしたときに、韶の楽を聞かれ、感動のあまり、三か月の間、肉を食べても味がわからなくなられた。そこで言われた。「まったく予期しなかったね、音楽がここまで行き着けるとは」と。
※浩→孔子は、魯の昭公が斉に亡命したとき随行して、数年間過ごしました。そのときに、聖人・舜が作曲したと伝えられる韶の舞曲を聞いた。その曲について、「美を尽くし善を尽くした」と言っている。韶は魯に伝わっていない曲で、孔子は斉で初めて聞いたのです。そして感激のあまり、肉の味が3か月わからなかったというくらい、彼は音楽好きだったのでしょう。私のアドラー心理学のお師匠様である野田先生も、大の音楽好きで知られています。ご自身もベルカント唱法で高らかに歌われますし、作曲も指揮もなさいます。ご本人は「指揮」が一番向いているとおっしゃいました。何しろカウンセリングの家元ですから、まさに「人生を指揮・アレンジ」するお方です。ずっと昔は、モーツアルトなどはお好きでなくて、マーラーの交響曲を好まれていたようですが、のちになってモーツアルトも受け入れられるようになられたようです。私は逆です。私はマーラーはあまりにも壮大すぎてついていけませんが、モーツアルトはずっと大好きです。特に軽やかなBGMっぽいのがいいです。モーツアルトはさまざまな楽器とオーケストラの協奏曲をそれはそれはたくさん書いています。弦楽器から管楽器まで。こうしていると、耳に響いてきます。『ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467』の第2楽章は、映画「短くも美しく燃え」の主題曲として超有名です。クラシックを離れてイージーリスニングの曲として、ポール・モーリア・オーケストラなどが演奏して大ヒットしました。『フルートとハープのための協奏曲』には特別な思い入れがあります。井原市立高校に在職中、理科の女性教師に高重京子先生という方がいらっしゃいました。「自叙伝」に書いていますが、彼女のご主人は岡山大学の教官で、小さいお嬢さんがいらっしゃいました。お住まいは岡山大学の官舎でしたが、そこから県の西端の井原まで毎日通勤されました。彼女はクラシック好きで私とはすぐに仲良しになって、オペラの手ほどきをしてくださいました。ちょうど、ベルリン・ドイツオペラの日本公演の最中でもありました。そこでも演じられていたヴェルディの『椿姫』の楽譜をわざわざ取り寄せてくださって、ヴィオレッタとアルフレートのデュエットを2人で歌いました。彼女はソプラノです。私は高校時代にはテノールで歌えましたが、当時のようなテノールは発声は難しかったです。むしろバリトンの父親役ジョルジョ・ジェルモン役のほうがぴったりだったかもしれません。「ああそはかの人か」はウンディ・フェリーチェ・エテーレア・ミーバーレナステ・イン・ナーアーンテ・エ・ダ・クエルティ・トゥレマンティ……だったかしら。その学校は、昭和39年度に開校した新設校で、私は開校年度に新卒で赴任しました。定時制でしたので4年制です。苦節4年ののち、最初の卒業式の準備のとき、彼女の発案によって、式後卒業生退場のときのバックミュージックを伝統の「蛍の光」をやめて、クラシックの名曲にしようということになりました。私たち2人に選曲が任されました。そのときの候補にまず『フルートとハープのための協奏曲』の第1楽章が上がりました。同時に、ヴィヴァルディの『四季』の「春」第1楽章が上がり、どちらもぴったりの名曲でしたが私たちには決めかねて、結局職員会議で全職員に聞いてもらった結果、『四季』の「春」に決まりました。本番では私がテープをセットして、司会者の「只今から卒業生が退場します。皆様拍手でお送りください」を合図に「春」を流しました。体育館内の一同が「蛍の光」を期待していたかどうかはわかりませんが、ヴィヴァルディのゴージャスな曲に新鮮な感動を覚えたに違いありません。このアイディアは、次の赴任校・高梁工業高校に行ってからも、職員会議で了承を得ることができて、やはり『四季』の「春」が使われました。このときの卒業生ももうじき後期高齢者です。
マーラーがお好きだった野田先生は、あるとき「ナマズに説教する聖アントニウス」という歌の話をしてくださいました。川でナマズたちが食い争い合っているのを見た聖アントニウスが、ナマズに説教して祈りを教えました。それ以後、ナマズたちは十字を切って、みんなお祈りするようになったそうですが、アントニウスがいなくなるとまた、食い争いを再開したそうです。
ちょうど、昭和から平成に代わるころ、横須賀の池上中学校の磯野先生が、荒れまくっていた学校を、アドラー心理学にもとづいて、1年で改革したという実績が話題になりました。それからしばらくの間は、学校はとても安定していて、文科省の研究指定校になって全国から見学者が殺到(?)したりしましたが、磯野先生がご退職になると、次第にアドラー方式は緩んでいったとか。これにちなんでマーラーの曲のお話をなさいました。私の身辺でも同様のことがあります。2000年前後の私の勤務校では、アドラー心理学のおかげで教育相談活動が定着して、相談室自体が憩いのスペースになっていました。相談も学校内外から需要があり、児玉先生と私とはとても充実したお仕事ができていました。2002年3月に児玉先生は備前(緑陽)高校へ転勤、私は定年退職で学校を去ると、1年くらいは私たちと一緒に仕事をされた内田都美子先生が私たちの雰囲気をそのまま引き継いでくださったのですが、その先生も翌年転勤されました。それを機にただちにアドラー心理学を導入する前の状態に戻ってしまったようです。
もう1つは、児玉先生の勤務校だった倉敷工業高校です。2017年4月に彼が津山へ転勤される前の数年間は、私もそこでスクールカウンセラーや講座などをやらせていただいていて、この学校にもじわじわとアドラー心理学が浸透していたようですが、彼が去り、その翌年に私も去りますと、相談室の責任者はアドラーとまったく関係ない人に替わり、これでアドラー色は一掃されたようです。学校は転勤がありますから、熱心なアドレリアン先生が、築いた実績は、その先生の転勤とともに消滅してしまうという現象があります。津山工業高校でまた児玉先生から招かれた私は、生徒・職員・保護者の相談に応じるほか、月2回のシュッ機微には現職職員の先生方のための講座を開催しました。60人の全職員が参加されたわけではありませんが、それでも毎回10人を越える方が参加されて、熱心に学ばれました。この学校の大きな特徴として、歴代校長さんがほぼ皆勤で参加されたことです。他校では経験がありません。ここでアドラー心理学を学ばれた先生方もやがて他校へ転勤して行かれます。転勤先でも実践を続けていかれれば、「アントニウスに説教されたナマズ」になることはないでしょう。