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スレッドNo.45

論語でジャーナル’25

14,冉有(ぜんゆう)曰く、夫子(ふうし)は衛の君を為(たす)けんか。子貢曰く、諾(だく)、吾これを問わん。入りて曰く、伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)は何人(なんびと)ぞや。曰く、古(いにしえ)の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり。また何ぞ怨みん。出でて曰く、夫子は為(たす)けじ。

 (衛の内乱に対して、亡命してきた孔子の一門のとるべき態度について弟子たちはさんざん議論して、決まらない。)とうとう冉有が言った。「先生は衛の殿様をお助けになるおつもりかしら」。子貢が言った。「よし、僕がおたずねしてきてやる」。部屋に入っておたずねした。「伯夷・叔斉はどんな人物でしょうか」。先生は言われた。「昔の賢人だよ」。子貢がさらにおたずねした。「君位を捨てても後悔はなかったでしょうか」。先生が言われた。「君位を捨てたのは、自分が仁の徳を全うしようとしたからだ。その目的を達したのだから、何を後悔することがありえようか」。
 部屋から出てきた子貢は言った。「うちの先生はお助けなさらないよ」。

※浩→この会話がいつ行われたかについては、いろいろ説があるそうです。いつも私が参照させていただいている貝塚茂樹先生は吉川幸次郎先生の説に従って解説されています。
 前493年、衛の霊公が死んだとき、その夫人・南子は、彼女を殺そうとして失敗して晉国に逃げていた太子・蒯聵(かいかい)を措いて、その子・輒(ちょう)を立てた。これが、衛の出(しゅつ)公である。晉国は太子・蒯聵を援助して、衛の戚(せき)の城に入れたので父と子が君位を争う内乱が起こった。このとき衛に滞在していた大学者・孔子がどちらを支持するか、衛国内で注目の的になっていた。弟子たちの間でも論争して決着がつかないので、 冉有が孔子の意思を知ろうとして、子貢がその質問役を務めた。子貢は、遠回しに、伯夷・叔斉の兄弟の伝説を取り上げた。2人は孤竹(こちく)国の王子だった。君主は弟の叔斉を愛してこれを跡継ぎにしようとしていた。君主が死ぬと、父の遺志を知っていた長子の伯夷は国外に逃亡して、弟に位を譲ろうとした。弟は兄をさしおいて位に即くのを受け入れず、兄を追って国外に去った。国民はやむなく中の王子を君位につけた。その後、伯夷・叔斉は周の文王のもとに身を寄せたが、文王が死に、その子の武王が殷の紂王を滅ぼして王位についたのを不当だとして、周の粟(ぞく)を食わぬと首陽山に行って餓死したという。孔子は、伯夷・叔斉を昔の賢人と見ているから、両者が互いに譲り合ったのに対して、衛の父子が相争うのはどちらも良くないと考えていることになる。君位を捨てて後悔したのではないかという質問に、「仁を求めて仁を得たので本望だろう」と答えたので、子貢は、孔子が衛の輒(ちょう)を助けないと見抜いた。孔子は父の蒯聵にも味方しないで、結局、衛を去って陳国に赴くことを決意した。このエピソードから、子貢がいかに俊才であったかがよくわかります。
 日本の歴史でも、天皇家や武家政権に「お家騒動」「跡目争い」がありました。古いところでは、壬申の乱でしょうか。天智天皇崩御後,天武元 (672) 年6月に皇位継承をめぐって皇族,豪族がそれぞれ2派に分れて争った内乱です。大化改新 (645) を成功させた中大兄皇子は天智7 (668) 年に即位して天智天皇となり,天皇による人民の直接支配を推し進めたが,天皇の実弟・大海人皇子(おおあまのおおじ)が兄を補佐した。ところが天皇は子の大友皇子が長じるにしたがって,聡明な大友皇子を自分の後継者に望むようになったため,大海人皇子との間に不和を生じた。同 10年正月天皇は大友皇子を太政大臣に任命し,蘇我赤兄 (そがのあかえ) と中臣金 (なかとみのこがね) を左右大臣に任じ,政治の表面から大海人皇子を締め出した。同年 10月大海人皇子は病床の天皇に招かれ,後事を託されたが拒否して東宮を辞し,出家剃髪して直ちに兵器を納め吉野へ退いた。これは皇位への執着の疑いを受けないためであった。同 12月天智天皇は崩御し,大友皇子 (弘文天皇 ) が近江朝の主となると,大海人皇子は翌年6月 24日挙兵して吉野を発し東国に向った。立ち遅れた近江朝側は苦戦を続け,同7月 22日最後の一線であった瀬田川の戦いに敗れ,大津宮は陥落した。大友皇子は自害し,右大臣中臣金は斬られ,左大臣蘇我赤兄は流罪となった。勝った大海人皇子は,天武2年即位し天武天皇となり,古代天皇制は一層強化された。
 中学・高校の日本史で学んだはずですが、すっかり忘れていました。この乱の舞台となった「瀬田川」なと言うと、またまた脱線してしまいます。野田先生が晩年お住まいになった地です。私が大学時代にボートの試合でたびたび訪れた地でもあります。
 伯夷と叔斉がともに王位を譲り合った話とは対照的に、衛は見にくい骨肉の争いです。わが国では、このほかにも、頼朝vs義経、足利尊氏vs直義、徳川家光vs忠長など兄弟の争いが多くあります。親子では、武田晴信(信玄)は父・信虎を追放して、甲斐の主となりました。譲り合った話を日本では思い出せないです。
 急に規模が小さくなりますが、私は退職直前に「教育相談室長」のお役をいただきましたが、この役職を、当時私は同室のY先生とで譲り合いました。結局、校長が強く私を薦められたため私が受け入れました。我ながら美談だと思っています。年度末に当時の室長さんが専門科の科長に移籍することが明らかとなりました。毎年末の分掌希望欄にY先生と私は、それぞれ相手を室長に推薦していました。ある日、校長室に呼ばれた私は、校長から「あなたがたは互いに室長のポストを譲り合っている。校長としては是非、大森先生にしていただきたい」とのお言葉をいただきました。私が室長に就任して1年間はY先生も同室で数々の貢献をなさいました。翌年には同和教育指導室へ移られ、さらにその翌年は図書室に移られました。ご本心の本心がどうだったかは知るよしもありませんが。

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