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スレッドNo.69

論語でジャーナル’25

25,子曰く、聖人は吾れ得てこれを見ず。君子者(しゃ)を見るを得ば、斯(こ)れ可なり。子曰く、善人は吾れ得てこれを見ず。恒(つね)ある者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りとなし、虚(むな)しくして盈(み)てりとなし、約(まず)しくして泰(ゆた)かなりとなす。恒あるに難(かた)し。

 先生が言われた。「聖人などに自分はついぞお目にかかったことがない。君子らしい人にお目にかかれたら上等なのだ」。先生はまた言われた。「善人には自分はまだお目にかかったことがない。心変わりしない人にお目にかかれたら上等なのだ。(世の中の人々の行動を見ていると)持っていない者を持っているように見せかけ、空っぽなのに充満しているように見せかけ、貧弱なのに豊富なふりをする。つまり見栄ばかりはっている。行動に基準があるとは言いがたい。

※浩→「聖人」の「聖」は元来、「耳がさとい」ということだったそうです。聖人は、「人より優れた資性に恵まれた人」の意味から、「完全な人」に、さらに「常人を超えた超人」に発展したそうです。超人といえば、ニーチェはキリスト教の神の存在を「神は死んだ」と否定して、人間で完ぺきな「超人」の出現を期待したのですが、アドラーにも大きな影響を与えながら、晩年は発狂しました。「永劫回帰」の人生観からは、虚無の世界を力でもって、繰り返し繰り返し生きる人間の姿が想像できますし、のちにアドラーが劣等感を補償しつつ、目標に向かって生きる「勇気」を主張したことと重なってきます。アドラー心理学では、よく「不完全を受け入れる勇気を持とう」と言います。
 「善人」は聖人のように完ぺきな人ではなく、道徳的に完全な人という意味でしょう。孔子の生きていた時代には、聖人も善人もただ可能性として存在するだけで、現実には存在しなかった。せいぜい「君子らしい人」とか「心変わりしない、確かで信頼できる人」くらいはありえたでしょうが、「心変わりしない人」でさえ、乱世では難しかったでしょう。令和の今も「乱世」のようで、日本は大丈夫なんでしょうか?50年に一度とか100年に一度とかの自然災害が、毎年どこかで発生します。特殊詐欺などの犯罪も多発しているし、学校での「いじめ」はあとを絶たない。世の中いたるところでの「マナーの不在」…。一体全体人間の「質」はどうなってしまったでしょうか。「世も末!」と叫びたい。せめて「禍福はあざなえる縄」という格言を思い出して抑えるしかありません。「性善説」は非現実的です。世の中は基本的には「悪人」で、例外として稀に「善人」がいるのでしょう。信号のない横断歩道で待っていると、止まってくれる車はほとんどありません。ときどき止まって車がいると、深く感動して、丁寧にお辞儀します。自転車の右側通行も多くて、こちらが左側を走っていると、向こうから(向こうは右)突進してくる自転車と正面衝突しそうです。以前は、こちらが道路中央へ逃げていましたが、そうすると自分が後ろから来る車に轢かれそうで危ないので、今はよけないでそのままその位置に停車しています。すると、向こうはしぶしぶ道路中央方向へよけています。孟子の「四端の心」(=惻隠・羞悪・辞譲・是非)の「人にはみな人に忍びざるの心あり」を信じたいのに!

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