論語でジャーナル’25
29,子曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、ずなわち仁至る。
先生が言われた。「仁は遠いところにあるのだろうか。いや、自分が仁を求めると、仁はすぐここにやって来るのだ」。
※浩→仁は遠いところにあるというのは、弟子たちの考えでしょう。孔子が仁の理想をあまりにも純粋なものとして説いたためか。最晩年の孔子は一転して、仁は求めれば達しうると説くようになったのでしょう。「心の欲するところにしたがって矩をこえず」と言えるのは、この時点ですでに「仁」に達しているということでしょうから。
「欲すればすなわち至る」というのは、聖書のあの言葉に近いような気がします。「求めよ、そうすれば与えられよう、探せ、そうすれば見出そう、叩け、そうすれば開かれよう。求める人は受け、探す人は見出し、叩く人は開かれるのである。あなたたちの中で、自分の子がパンをほしがっているのに石をやり、魚をほしがっているのに蛇をやる人があるだろうか。あなたたちは悪い人間ながらも、良いものを自分の子に与えることを知っている。それならまして、天においでになるあなたたちの父が、求める人によいものを下さらぬわけはない。だから、他人からしてほしいと思うことを、あなたたちも他人に行いなさい。これが、立法と預言者なのである」(カトリック教会版「新約聖書」マテオ(マタイ)による聖福音書から)
久しぶりにカトリックの聖書を開きました。大学生のとき、アウグスティヌスの教父哲学研究のために資料豊富な岡山市内のカトリック教会の図書館を訪問しているうちに、「ミイラ取りがミイラに」なって、自分も洗礼と続いて堅信の秘蹟を受けました。日曜日ごとのミサや、降誕祭の荘厳ミサやバザーなどに参加して、お友だちもたくさんできました。しかも、大胆にも合唱隊(ア・モンテ・カント合唱団)に入って、定期的な練習会にも出ていました。メンバーのどなたも譜面を見るとすぐ声に出して歌えるのにびっくりしました。私はとてもおぼつかないので歌えるところだけ歌って、あとは見栄を張って、クチパクしていました。パートはテノールでした。この合唱団は、ときどき施設を慰問して歌っていました。思い出すのは、クリスマスに長島愛正園に慰問したことです。当時はまだ橋が付いていなくて船で渡りました。園までの道をメンバーさんたちと一緒に、星空を見上げながら、坂本九ちゃんの「見上げてごらん夜の星を」を合唱しながら歩きました。ステージでは「クリスマスキャロル」を何曲か歌いました。その後、あるメンバーさん(おばさま)のお宅に招かれました。応接間に豪華なステレオがあって、モーツアルトの「レクイエム」を聴かせていただきました。その後、練習会でもこの大曲を歌い、その後私の最も好きなクラシックの一曲になりました。そのおばさまは、ご自分のお葬式はこの曲で送ってほしいとおっしゃっていました。ドラマの「相棒」でときどきバックミュージックとしてにこの曲が使われています。
アドラー心理学で「仁」に近いのは「共同体感覚」でしょうか。例えば、共存共栄、建設的貢献的な行動、家族の役に立つ、社会の役に立つ、相手が喜ぶような行動は何か、そういう関係……。うーん、私は孔子が「七十にして心の欲するところにしたがいて矩をこえず」と言われた年齢をはるかに超えましたが、まだ無理です。それでもがっかりすることはありません。「不完全を受け入れる勇気」を発揮して、そちらへ向かいます。
今日は、開講32周年の岡工講座です。昨日連絡があって、常連さんの何人かが欠席だそうです。おやおや!まあ、記念日を喜んでいるのは、児玉先生と僕だけなのかもしれませんから、現状を素直に受け入れます。出発点の1993年9月4日の参加者は、児玉先生と僕と岡工の先生お一人と外来のお客様1人の合計4人でしたから、「原点回帰」だと思いましょう。一見魅力的なアドラー心理学ですが、その中身は徹底的に「自己責任」を強調しますから、内容がわかるにつれて不人気になるのも仕方ないです。それでも限られた常連さんのおかげで今後も講座は成り立っていくでしょう。