論語でジャーナル’25
30,陳の司敗(しはい)問う、昭公は礼を知れるか。孔子対(こた)えて曰く、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進ましめて曰く、吾聞く、君子は党せずと。君子もまた党するか。君、呉に娶(めと)れり。同姓なるがために、これを呉孟子と謂う。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。巫馬期、以て告ぐ。子曰く、丘(きゅう)や幸いなり、苟(いやしく)も過ちあらば人必ずこれを知る。
陳国の司敗、つまり司法長官が孔子にたずねた。「お国の昭公殿は礼の心得があられるのか?」。孔子はお答えした。「礼を心得ていらっしゃいます」。
孔子が退室すると、司敗は孔子の弟子の巫馬期に(両手を組み合わせて少し上に上がる)お辞儀をして自分のほうへ来させて言った。「自分は、君子は仲間贔屓はせぬと聞いていたが、君子でも仲間贔屓するのかしら。魯の昭公についての君の先生のさっきの言葉は仲間ぼめのように思われる。昭公は呉の国から奥方を迎えられた。魯と呉は同じく「姫(き)」の苗字で、同姓の者は結婚しないのに、呉孟子と呼び替えて事実を覆い隠して結婚した。もし昭公が礼を知っているとしてよいならば、礼を知らない人間などこの世にいない。巫馬期はこの無遠慮な言葉に答えるすべを知らなかった。そしてそれをそのまま孔子に告げた。すると孔子は、何も弁解がましいことは言わず、ただ静かに言った。私は幸福である。私が少しでも過ちを犯せば、誰かがすぐそれに気づいてくれる」。
※→人名も解説も難しいです。「世界の名著」と「中国古典選」から必死にかき集めてまとめました。
孔子は昭公が犯した過ちに気がつかないのではなく、故国のために荒立てるのがイヤだったにすぎないのでしょうが、それにしても過ちは過ちとして、潔く認める孔子の人間性はお見事と編者も絶賛しています。そういえば、「学而編」に、「子曰く、君子は重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如(し)かざる者を友とすることなかれ。過ちてば則ち改むるに憚る(はばかる)こと勿かれ」とありました。
間違いを犯したら、直ちに謝るに限ります。相棒の児玉先生と話していて、自信家の私はときどき強引に自説を通そうとしていました。こういうときの先生の対応はお見事です。2016年のアドラー心理学会新潟総会で新潟市に滞在中に、気づきました。意見が分かれたときに、先生はきまって「じゃあ……」と言って、私の意見に一旦賛同されます。やがて間違いに気づいた私は、「ごめん、やっぱり先生が言ったとおりです」と訂正します。すると彼は、「でしょう」で、トラブルにならないで一件落着します。このコミュニケーションの構造に、遅ればせながら新潟で気づきました。他にも多くの気づきのあった有意義な総会でした。
在職中に宿泊研修で私が団長を仰せつかった年があります。準備段階から、各クラスの組長さんたちと準備のための共同作業をしました。このプロセスで、どのクラスの組長さんともずいぶん親しくなりました。あるクラスの授業で、たまたま組長さんが欠席していたとき、うっかり彼をネタにして話したことが、のちに本人に伝わっていて、次の授業ですごく不機嫌でした。「どうしたの?」とたずねると、「うるせー!」と一蹴。「さては前の時間に言ったことが伝わったな」と気づいて、どう始末をつけるか一生懸命考えました。とにかく謝らないといけない。考えに考えた結果、封書のお手紙を直筆で書いて担任から渡してもらいました。「悪気はなかったけど、つい親しさのあまり、君のいないところで君のことを話題にした話をしてしまいました。軽率でした。人として恥ずべき過ちです。大変不快を思いをさせてしまいました。心からお詫びいたします……」。朝のホームルームで担任から渡してもらいました。その日の放課後、私のいる「教育相談室」にその生徒がやって来ました。手に封書を持っています。私は、さらに抗議するために来室したのだと思いました。でも彼は、「先生、感動しました」と言ってまっしぐらに私に近づいてきました。私は誠意が通じたことに加えて、わざわざたずねてきてくれたことに、深く感動しました。まことに「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」です。しかも、生徒が相手であっても「横の関係」です。