論語でジャーナル’25
31,子(し)、人と歌いて善(よ)きときは、必ずこれを反(くりかえ)さしめて、而(しか)してのちこれに和す。
孔子は唱歌の会で、すぐれた歌だと思ったら、いつも仲間にそれをもう一度歌わせて、そのあとで、自分もそれと合唱した。
※浩→小さなエピソードですが、孔子の人柄がにじみ出ていてほほえましいです。野田先生も歌が大好きでした。旧・アドラーギルド(新大阪)の時代に、よくフロアを歩きながら、オペラの一節などを口ずさまれていました。高いテノールのようでした。野田先生は、作曲家マーラーがお好きだとおっしゃっていました。ニーチェはワグナーが好きだったのでしたか。どちらも壮大なオペラが有名ですが、私にはついていけません。クラシックはブラームスまでです。ベートーベン、モーツアルトは好きです。音楽の授業で習った「音楽の三要素」は、歌詞・メロディー・リズムですが、私は「メロディー」を重視します。ですから、最近の歌はまったく理解できません。あまり早口で、歌詞がさっぱり聞き取れません。だたの騒音です。
新卒で赴任した井原市立高校では、理科の高重京子先生がオペラ好きで手ほどきをうけました。そしてベルディの「椿姫」のアリアの一部を合唱しました。高重先生がビオレッタで、私はアルフレートでした。この先生の前任者の影山幸生先生は私と新卒で同時に赴任して、赴任当時の1,2か月は歴城荘という大きな旅館の一室をシェアしていました。彼と24時間一緒に暮らしているうちにお互いのわがままが出て、トラブルになる前に、私は明日屋というクリーニング店の小学生(5年生か6年生)の家庭教師を条件に、そこが経営するアパートの一室を無料で借りることができました。6畳の和室・台所・トイレがあります。お風呂はないので住人は銭湯を利用していましたが、私は明日屋のお風呂に入れてもらえました。よく小学生の息子さんと一緒に入っていました。その後、影山先生とは別に暮らすようになったおかげで、トラブルもなく、仲良く勤務することができました。その先生は、2年で出身地の津山へ転勤されました。その後任が高重先生です。高重先生はオペラが好きで、影山先生は詩吟が十八番でした。専門は「生物」の特に爬虫類が専門で、学校の片隅で「蛇」を飼っていました。「爬虫類の肌はとても清潔なんだ」と言って、ときどき私にも触らせてくれました。たいていの人はイヤがるそうですが、私は巳年のためかどうかわかりませんが、平気でした。影山浪曲もお好きで、当時大ヒットしていた、三波春夫の「俵星玄蕃」を2人で覚えて、職場の宴会で披露しました。「槍は錆びても、その名は錆びぬ、男玄蕃の心意気ー……」と出だしを私が歌うと、続く浪曲の「涙をためてふりかえ~~~る~~、蕎麦屋の姿を呼びと~~~めて、せめて名前を聞かせろよと~~」の部分を影山先生が歌います。続く、語りの部分「ときに元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流の陣太鼓、一打ち二打ち三流れ、……」は私です。「吉良の屋敷に~~~来てみれば~~今討ち入りの真っ最中……」と浪曲は影山先生、……。そして「打てや響けや山鹿の太鼓……」とラストの歌の部分を2人で合唱して、満座大受けでした。以後は、歓送迎会と忘年会には必ずリクエストがあって2人で歌っていました。三波春夫のそれに続く「赤垣源蔵」をも稽古してレパートリーに加えました。
こういうわけで、私の音楽レパートリーは、モーツアルトやベートーベンのさまざまな作品、ベルディ、プッチーニなどのオペラ、そして三波春夫の演歌と、ごった煮になっていきます。大学生のころ、美空ひばりさんの端唄をレコードで聴いて、これにも引き込まれました。まず、「さのさ」から始めて、市丸姐さんの「槍さび」を覚えて、宴会で疲労するとこれがまた大受けで、岡工の宴会では「端唄の大森」と異名をとったかどうかは定かではありませんが、私のお得意レパートリーになりました。今は端唄を唄う機会はまったくなくなりました。岡工講座で何かの折りに口ずさんでみましょうか。