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スレッドNo.84

論語でジャーナル’25

32,子曰く、文は吾(われ)猶(なお)人の如くなることなからんや。躬(み)をもって君子を行うことは、則ち吾未だ(いまだ)これを得(う)るあらざりなり。

 先生が言われた。「書物の上の学問なら、自分は人並みにできないことはなさそうだ。生活の中で君子らしい行いを実践することは、自分はまだまだできないのだ」。

※浩→原文に意味不明の個所があるそうですが、「世界の名著」も「中国古典選」も、だいたい上のような訳です。特に、「中国古典選」では吉川幸次郎先生が、意味不明な語句があるので、「うかつに説を立てないこととする」と慎重に扱っています。
 書物での学問は人並みにできるが、君子としての「仁」の実践はまだまだである、と孔子のような偉人でさえ、こう言っています。アドラー心理学では、たびたび言っていますが、書物や講演での「読」、咀嚼して自分のものにする「思」、そして実践する「修」を実践するように教わりました。儒学では「仁」にもとづく「礼」の実践が君子の道です。アドラー心理学では、もちろん「共同体感覚」の実践ですが、この「共同体感覚」という概念は、言葉でどのように説明しても尽くしきれません。「共同体感覚とはこうだ」と言ってしまうと、たちまち教条主義的になってしまいます。まさに老子が「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず…」と言っているとおりで、「これが道だと規定しうるような道は、恒常普遍の真の道ではなく、これが真理の言葉だと決めつけるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない」です(「中国古典選、老子、上」、福永光司、朝日新聞社)。野田俊作先生も、「共同体感覚という言葉は嫌いです。こう言うとすぐに、世間で通用している「共同体」という言葉や、「感覚」という言葉に結びつけて解釈してしまうから、“P28”とか“X30”にすればいい」とおっしゃっていました。老子に「物あり混成し、天地に先立ちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず、周行して殆(つか)れず。もって天下の母と為すべきも、吾その名を知らず。之に字(あざな)して道と曰い、強いて之が名を為して大と曰う……」(第二十五章)とあるように、仮に「共同体感覚」と言っているのだと考えるのが安全です。しかしこれでは全然わかりませんから、「近似値」として、実際に野田先生が書かれた「カウンセリング辞典」から引用しておきます。
 (共同体感覚は)アドラー心理学の鍵概念のひとつ。共同体とは、狭義には現在と未来の一切の人類であり、広義には宇宙全体である。すなわち、実際の社会をいうのではない。このような意味での共同体への基本的な、①所属感、②信頼感、③貢献感をあわせて共同体感覚という。これを持っていることが心理的健康の条件であり、逆に、すべての精神病理はこれの不足ないしは欠如に由来する。したがって、アドラー心理学のカウンセリングと心理療法の基本的な目標は共同体感覚の育成である。その具体的な方法として、①治療状況を閉鎖的なものではなく、グループ療法などの開かれた設定にすることを好み、②治療者・患者関係をつねに相互尊敬・相互信頼にもとづくまったく対等の協力的交友関係にし、③たえず他者への貢献の可能性を問いかけ、④社会適応を越えてより大きな全体との関係に注意を向けさせる、などの働きかけを行う。(「カウンセリング辞典」、國分康孝編、誠信書房)
 カウンセリング場面はさておき、私生活では共同体に所属できていて、共同体を信頼していて、共同体に貢献できて、人々と対等の協力的関係を実践できているかどうかです。私には書物での学問でさえ不十分なのに、実践となるとまったく萎縮してしまいます。あまりに高すぎる目標設定をすると劣等感が広がるばかりですから、小さな歩みを重ねていくしかありません。手がかりとして、「今の行為は共同体感覚にもとづいていた」と肯定的に考えるのではなくて、「今の行為は共同体感覚に反していなかったか?」と否定的に自己批判しながら生きていくことではないかと思います。こういうのは東洋的です。「曾子曰く、吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか」と「学而篇」にあります。

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