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スレッドNo.88

論語でジャーナル’25

34,子(し)疾(や)まい病(へい)なり/子疾(や)む。子路(しろ)禱(いの)らんことを請う。子曰く、諸(これ)ありや。子路対(こた)えて曰く、あり、誄(るい)に曰く、爾(なんじ)を上下の神祇(しんぎ)に禱ると。子曰く、丘(きゅう)の禱ること久し。

 先生の病気が危篤状態になられたので/病気になられたので、子路がご祈禱したいと願った。先生が言われた。「そんな例があるのか」。子路はお返事した。「ございます。君主から死者に賜る追悼の辞に『汝のことを天地の神祇に禱る』とあります」。先生が言われた。「それなら、私はずっと以前から天地の神祇にお祈りしている。その必要はない」。

※浩→最初の「疾病」のところは、「病」がない本もあることで、貝塚茂樹先生はそれを省いて、ただ「先生が病気になられた」と訳され、吉川幸次郎先生は「病気が危篤状態になられたので」と「病」を入れて訳されています。ただし、この出来事は孔子七十三歳の臨終のときのことではないようです。子路は孔子より一年早く死んでいますから、これはそれまでのあるときの大病のことでしょう。せっかちの子路は孔子の病気が少し悪かったのを危篤と勘違いして神に祈ろうとしたのかもしれません。孔子は、「病気の平癒を神々に祈るという先例はあるか?」とたずねた。子路は「そうした例はございます」と答えた。そしてその証拠として、『誄(ルイ=しのびごと)』という文献に、「汝のことを天地の神祇に禱る」という文句があるのを挙げた。すると孔子は答えた。「そうか、そうしたことが祈る内容であるならば、私は久しく祈っているよ。私は神々から咎められないように行動してきたつもりだ。今さら仰々しく祈る必要はない」と。
 「子は怪力乱神を語らず」というのがありましたが、孔子は、神の存在を意識しないわけではありませんでした。しかし孔子には、神というのは、援助を求めるべき性質のものではなく、人間が自主性をもって、正しい行動をするならば、神は自然に人間を助ける、と考えていたようにみえます。で、「私は神々から咎められないように行動してきたつもりだ。今さら仰々しく祈る必要はない」と応えました。
 私は子どものころ、母からよく「悪いことをしたら、お天道様(てんとうさま)がちゃんと見ている」と言われました。おかげで、自分の人生をふりかえると、「ずるいこと」や「あやまち」を犯したことはないとは言えませんが、いわゆる「悪いこと」はたぶんしていないように思います。ま、自分に都合良く言ってはいますが、そう信じることにします。もしもほんとに悪いことをしていたら、因果応報でその報いがあったに違いありませんから。確かに苦難の時期はありましたが、それは悪業の報いとは考えられません。フランシスコ・ローマ教皇さまが来日されて、学生時代に一時カトリックにひたっていたことを思い出しました。教理の実践は今思うととても偽善的で、何かのタスクを回避するために信仰を利用していたフシがあります。おっと、これは「悪行」です(笑)。大学卒業後ずっと岡山市に住んでいたら、カトリック教会とのご縁は続いていたかもしれませんが、先祖や肉親の供養で檀那寺のお世話になることが多くなるにつれて、カトリックとは遠ざかっていきました。わが家は日蓮宗ですからお経は『法華経』です。住職から「方便品(ほうべんぽん)第二」が特に大事だと教えられましたが、経本を見ないと唱えられません。「般若心経」は暗記できています。「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。……カトリックの祈禱文も、「主の祈り」と「天使祝詞(アベ・マリア)」は今でも覚えていて、唱えられます。似非クリスチャンではありましたが、離れたのちも安息に暮らせているのは、やはりご加護があるからではないかと、脳天気に考えています。アドラー心理学で、「共同体感覚を生きているぞ-」と豪語して暮らすのも偽善的で、ただ黙々と、少しでも「自分は共同体のために何ができるか」考えて実践するだけです。

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