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スレッドNo.90

論語でジャーナル’25

35,子曰く、奢(おご)れば則ち不遜、倹なれば則ち固(いや)し、その不遜ならんよりは寧(むし)ろ固(いや)しかれ。

 先生が言われた。「贅沢な暮らしをしていると、態度が自然に尊大になる。つつましすぎる暮らしをしていると、態度が自然に野卑になる。だが尊大なのより野卑のほうがましだ」。

※浩→日本には、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という俳句のような故事熟語があります。作者は不詳だそうです。うちの母が、子どもの私たちによく話してくれていました。「稲が成長すると実を付け、その重みで実(頭)の部分が垂れ下がってくることから、立派に成長した人間、つまり人格者ほど頭の低い謙虚な姿勢である」という意味です。「頭を垂れる」という言葉に「相手に敬意を払って自分を謙る」という意味があるので、稲が立派に成長するに従って、稲穂の部分が垂れ下がってくる様子を、成長していく人間に喩えています。
 『礼記』に「中庸篇」があり、四書に『中庸』があり、儒家思想にとって「中庸」はキー概念です。ここでは「尊大と野卑を比較すると、野卑のほうがましだ」と、二項対立的に「甲より乙がまし」と言っています。『論語』にはこの文体が頻発します。よくあるのは、「君子は~、小人は……」です。
 西洋では、J.S.ミルの「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」が思い出されます。これは、ベンサムが快楽を「量」で計算できると、「最大多数の最大幸福」と言ったのに対して、ミルは「量」より「質」を重視して言ったそうです。文中の「馬鹿」は、私が習ったころは「愚者」と言っていました。「馬鹿」は過激だと思うし、日ごろさんざんお世話になっている「豚さん」には失礼だと思いますが、意味はわかります。「ボロは着てても心は錦、どんな花よりきれいだぜ」と、水前寺清子さんが歌っていました。
 アドラー心理学では、「共同体感覚」が「自己執着」との対比で語られます。「この事態はわれわれにとって何だろう」と考えるのが共同体感覚で、「この事態は私にとって何だろう」と考えるのが自己執着だと言われます。「見栄の大森」の異名をとる私には、きわめて困難なテーマです。用心していないと、ボーッとするとすぐに「ドヤ顔」になります。感情のコントロールが苦手で、一旦感情が高まると制御できなくなるのを恐れて、意図的に感情を抑圧している人がいます。「ドヤ顔」になるのを避けて、極端に謙虚にふるまうと、かえって「慇懃無礼」になるでしょう。私もそれを指摘されたことがあります。昔、アドラーに“帰依”して転身した直後に、生徒から言われました。「大森先生の穏やかさには裏がある」と。鋭いです。しっかり見抜かれています。やはり、『論語』に助けてもらいましょう。「曾子曰く、吾、日に吾が身を三たび省る。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」(学而編)。

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