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スレッドNo.94

論語でジャーナル’25

37,子は温(おだや)かにして而(しか)も厲(はげ)し。威あって而も猛(たけ)からず。恭(うやうや)しくして而も安(やす/やすらけ)し。

 先生は穏やかでありながら、きびしいところがあり、威厳がありながら、荒々しくなく、慎み深いところがあって、固苦しくなかった。

※浩→ここは孔子の人格を弟子が記載しています。「而も」という接続詞は、相異なるごとく見える要素の、釣り合いの取れた併存、それが中国では常に人間の理想とされた。孔子はまさしくそういう人物であったということです。
 ここでも“中庸”の徳を思わせますが、中庸というのは、物事のちょうど真ん中ということではなくて、「時と場合に応じて過不足のないように」ふるまう、というように理解できます。古代ギリシャのアリストテレスが言う“中庸”がそうでした。したがって、「穏やかでありながらきびしいところがない」というのは、穏やかさときびしさの真ん中ではなくて、「然るべき人に然るべきときに然るべき程度に穏やかに、然るべき人に然るべきときに然るべき程度にきびしく」ということではないかと思います。“併存”はこういうことでしょうか。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』などに“中庸の徳”が述べられています。アリストテレスの師匠プラトンは、“四元徳”といって、知恵・勇気・節制・正義を挙げました。馬車に喩えて、御者=知恵が勇気と節制という2頭の馬をうまくコントロールできている状態が正義であるということです。アリストテレスはこれをさらに発展させて、まず、知性的徳と習性(倫理)的徳に分けました。知性的徳はさらに理論的な「知恵」と実践的な「思慮」に分かれ、知恵はひたすらイデアを求める“観想”で、思慮は感情や欲望に中庸を命じて、それが実現したものが「習性的(倫理的)徳」ということになります。「勇敢」「節制」「矜恃」「穏和」「親愛」「機知」「正義」などについて、詳しく述べられています。アドラー心理学の世界では、1998年の名古屋総会に招聘したジェーン・ネルセン先生がおっしゃった、「やさしく、きっぱり(kind and firm)」が、今日の「論語」にぴったりきます。やさしすぎるとアナーキーになりそうで、またきびしすぎるとファシズムになりそうです。ちょうどほどよくということですが、これも、「kind+firm/2」ではなくて、時と場合と相手に応じてしかるべくと考えるほうが、実践的です。学校ではよく「授業が騒がしい」クラスが話題になります。指導教師の態度が「毅然としていてしかもやさしさ」を踏まえていると、こういう事態には陥らないはずなのですが。野田先生は、断食も飽食もたやすいが、中間のダイエットが一番難しいとおっしゃっていました。
 「論語・述而篇」はこれで終わりです。次回からは「泰伯篇」に入ります。(野田俊作)

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