論語でジャーナル’25
2,子曰く、恭にして礼なければ則ち労す。慎にして礼なければ則ち葸(し)す。勇にして礼なければ則ち乱る。直にして礼なければ則ち絞す。
君子、親(しん)に篤(あつ)ければ則ち民仁に興る。故旧(こきゅう)忘れざれば則ち民愉(うす)からず。
先生が言われた。「丁寧なばかりで礼を知らないと骨折り損になる。控えめなばかりで礼を知らないと心配性になる。勇敢なばかりで礼を知らないと乱暴になる。率直なばかりで礼を知らないと辛辣になる」。
「君主が近親に親切であれば、人民は仁の徳に目覚めるであろう。君主がまた昔の友だちを忘れることがないと、人民もまた薄情でなくなる」。
※浩→前半と後半の連絡が良くないので、新注では「君子」以下は孔子の別の機会の言葉であるとされています。新注嫌いの荻生徂徠もこの説に賛成だそうです。「礼」は周公旦(周の文王の第4子,武王の弟)が定めたものを孔子はお手本にしていますが、時代とともに形式化していたのを、「仁」(内面=まごころとおもいやり)との調和を唱えて立て直しました。普通、「仁」を伴わない「礼」は偽善的だと言われますが、ここでは逆に、「内面」を外面的形式で整えているようです。すなわち、無法則な丁寧さは骨折り損になるだけで、無法則な慎重さはいじけるだけで、無法則な秩序は無秩序を生み、無法則な正直さは人を締め上げると。そうか、「仁」は“中身”で、「礼」は“容器”のようなものでしょう。ファッションで言うと、中身はボディで容器は服装でしょう。だんだんわかりやすくなってきました。ま、私の暴論です。