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スレッドNo.10

第八話 雪とぼたん雪

 俳句は17音ですが、作者は17音すべてを自由に使えるわけではありません。
 俳句には季語が必要であり、その季語にも色々な音数のものがありますので、音数の多い季語を使えば、必然的に描写に使える音数は少なくなります。
 例えば「蚊(か)」と言う1音の季語の場合なら、残りの16音を自由に使うことができますが「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」などの場合は10音もあるので、たった7音しか描写に割り当てることができません。
 それなら、なるべく短い季語を使ったほうが、一句の自由度が高くなり、多くのことを読み手に伝えられると思われますが、実はそうではありません。
 俳句は、自分の考えや想いを全部詰め込んで、一から十まで言い切る詩ではありません。一番言いたいことは言わず、状況だけを切り取ったり、そこにあるモノだけを写生し、季語との響き合いで、自分の想いを表現するものなのです。
 ですから、作者の想いは季語が代弁してくれますので、季語の音数に関係無く、描写と季語が響き合えさえすれば、一句が成り立つのです。
 とは言え、もしも16音の季語があったとしたら、さすがに残り1音で何かを描写することは不可能です。しかし、ある程度の描写ならば5音もあれば可能なので、最大12音までの季語なら、あたしは俳句になりうると思っています。
 初心の頃は、言いたいことが多すぎて、なかなか短くまとめることができず、そのために音数の少ない季語を選びがちですが、逆にそのせいで言葉を詰め込み過ぎてしまい、視点の定まらない息苦しい句になってしまうことが多いのです。ですから、あえて音数の多い季語に挑戦してみると言うのも、必然的に描写のぜい肉をそぎ落とすこととなり、句作の上達に繋がるのです。
 しかし、長い季語を使ったために、必要以上に描写を省略しなくてはならず、肝心の句意が伝わらなくなってしまっては本末転倒です。そんな時は、同じ本意を持った、音数の少ない別の季語に代えてみることです。

 例えば「クリスマス」と言う5音の季語を斡旋すると、どうしても残りの12音では自分の理想とする描写ができない場合、同じ本意を持つ「聖夜」と言う季語に代えれば、あと2音、描写の枠が広がります。「クリスマスツリー」と言うと8音ですが「聖樹(せいじゅ)」にすれば、たった3音です。
 ですから「クリスマスツリー」と言う季語と、残りの9音の描写との響き合いで、自分の想いを表現できれば、もちろん一番理想的な形ですが、句意すら伝わらないものになってしまうくらいならば、季語を「聖樹」に代え、きちんと表現すべきなのです。
 「クリスマスツリー」と「聖樹」は同じものを指すので、季語を入れ代えたところで基本的な句意は変わりませんが、例えば「ぼたん雪」と言う季語を使っていて、描写にあと3音欲しいからと言って、ただの「雪」に代えてしまうと、句意が変わって来てしまいます。
 作者の頭の中には、ぼたん雪の降る光景が残っているかも知れませんが、初めてその句を目にする読み手にとっては、ただ「雪」と書かれているだけだと、十人十色の「雪」を思い浮かべてしまいます。中には吹雪のような激しいものを想像する人もいるでしょうし、ハラハラと散る粉雪を想像する人もいるはずです。そうなって来ると、作者の見た光景が、読み手に正しく伝わらなくなってしまいます。そして、どんな雪が降っていたのかによって、句の持つイメージも大きく変わって来てしまいます。ですから「ぼたん雪」を「雪」に代えて、描写の枠を3音広げると言うことは、逆に季語の発言力を半分以下にしてしまい、作者の想いを伝わりにくくしてしまうことなのです。

 このように、季語と言うものは、その俳句を読む人にとって、句の背景を推測したり、作者の想いを想像したりするための、大きな役割を果たしているのです。ですから、一句ができ上がったからと言って安易に投句したりせず、もう一度、使用した季語を歳時記でチェックし、本当にその季語で良いのか、もっと適切な季語は無いのか、など、十分に調べ、これ以上の季語は考えられないとなった時点で、初めて読み手の前に披露するべきなのです。

編集・削除(編集済: 2022年08月09日 21:03)

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