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『きっこ俳話集』正編裏編 検索用全目次

『きっこ俳話集』正編裏編の全91話の全俳話のハイヒール図書館「きっこ俳話集」室への収納が完成しましたので検索用の全目次を作成しました。上部のメニュー項目から「検索」を選んで読みたい俳話のタイトルをコピーしてペーストしていただければ該当の俳話をピックアップして講読出来ます。再読などに便利ですので御利用ください。

    『きっこ俳話集』正編 全45話 目次

   第一話 猫と魚釣り
   第二話 五感と第六感
   第三話 字余りと字足らず
   第四話 季節のラブレター
   第五話 ★ホトトギス帝国の崩壊
   第六話 ひらひら
   第七話 歳時記購入マニュアル
   第八話 雪とぼたん雪
   第九話 冬の花
   第十話 俳句と川柳
   第十一話 歳旦三つ物
   第十二話 十七文字の翼
   第十三話 未完の可能性
   第十四話 恋歌からエロティッ句へ
   第十五話 ★雲の上の人達
   第十六話 不易流行
   第十七話 高得点句から学ぶこと
   第十八話 ★縄文式句会
   第十九話 きっこのお薦め俳句本
   第二十話 松の声
   第二十一話 伝統俳句って何?
   第二十二話 ★短歌はCD、俳句はレコード
   第二十三話 つきすぎと離れすぎ
   第二十四話 運動会と吟行会
   第二十五話 神々の宿る言葉
   第二十六話 俳句の作り方
   第二十七話 季語の声
   第二十八話 添削指導とは?
   第二十九話 お~いお茶
   第三十話 ★俳壇のゴッホ達
   第三十一話 俳句のシャッターチャンス
   第三十二話 きっこ徒然草(笑)
   第三十三話 自分の言葉
   第三十四話 水中花VS兜虫
   第三十五話 俳句のリフォーム
   第三十六話 俳壇なんでだろ~?
   第三十七話 俳句deしりとり
   第三十八話 仰臥漫録
   第三十九話 続・俳句deしりとり
   第四十話  言わなくてもいい言葉
   第四十一話 俳句が生まれる場所
   第四十二話 オヘソでカプチーノ
   第四十三話 本物の俳句の力
   第四十四話 戦争と俳句
   第四十五話 冷血漢・水原秋桜子


    『きっこ俳話集』裏編 全46話 目次

  裏第一話 てのひらを開けば
  裏第二話 龍太の言葉
  裏第三話 俳壇クエスト
  裏第四話 理想の俳句
  裏第五話 不死の男
  裏第六話 俳句スポーツ説
  裏第七話 行雄VS明男
  裏第八話 俳号と言う虚の客観性
  裏第九話 タマゴで産みたい?
  裏第十話 ビールと枝豆
  裏第十一話 子宮筋腫
  裏第十二話 プロの仕事
  裏第十三話 心のしりとり
  裏第十四話 タマちゃんとゴロー
  裏第十五話 今どき第二芸術論(笑)
  裏第十六話 写生の嘘と対象の本質
  裏第十七話 意識の共有
  裏第十八話 俳句研究
  裏第十九話 俳句界のMAX
  裏第二十話 ネコにも解かる旧仮名講座
  裏第二十一話 増殖する左脳俳人
  裏第二十二話 「もの俳句」と「こと俳句」
  裏第二十三話 バスルーム・ドリーマー
  裏第二十四話 七名八体
  裏第二十五話 からんからん
  裏第二十六話 ありがとう!「楽・ら句・俳句」
  裏第二十七話 俳諧と言う古池に飛びこんだ蛙
  裏第二十八話 見てから作る
  裏第二十九話 表記と言う技法
  裏第三十話  蕉門十哲+1
  裏第三十一話 俳句の缶詰
  裏第三十二話 ふだん着の俳句
  裏第三十三話 虚子の虚は虚言の虚
  裏第三十四話 きっこのウワサ(笑)
  裏第三十五話 軽視される片仮名表記
  裏第三十六話 しなやかに
  裏第三十七話 平成の俳諧師たち
  裏第三十八話 第49回角川俳句賞受賞作品「色鳥/馬場龍吉」を読む
  裏第三十九話 プチ山頭火
  裏第四十話  絵画的写生俳句
  裏第四十一話 本当のネット句会とは
  裏第四十二話 きっこからのお年玉(笑)
  裏第四十三話 がんばれ!廣太郎
  裏第四十四話 寒卵
  裏第四十五話 春の宵にはぶらんこを
  裏第四十六話 デタラメな俳句サイト

編集・削除(編集済: 2022年09月29日 09:51)

裏第四十六話 デタラメな俳句サイト

あたしが、この「きっこのハイヒール」を開設したのは、ネット句会のあまりのレベルの低さに嫌気がさしたことも理由のひとつですが、先月、あちこちの俳句サイトを覗いて回ってみたら、相変わらずのデタラメが横行していて、呆れ返ってしまいました。

毎月、700句前後もの投句がある大きなネット句会では、先月(平成16年2月)の句会で、次の句が最高得点になっていました。

  春うらら母を追い抜く三輪車

作者の名誉のために、あえて名前は伏せますが、「春うらら」なんて言うデタラメな季語を使った句が最高得点だなんて、句会のレベルそのものを疑います。

春は「うららか」であり、それに対して「秋うらら」や「冬うらら」と言う季語が生まれたのであって、「春うらら」などと言う造語がまかり通るのは、どこかの地方競馬場くらいです(笑)
「春うらら」と言うのは、「馬に乗馬する」と言っているのと同じで、季語としてだけではなく、日本語としても間違っているのです。
「桜」と言えば、誰が考えたって「春」に決まっています。桜のことを「春桜」などと言う人がいるでしょうか? 「桜」が春を代表する花だからこそ、冬の桜を「冬桜」と呼ぶのです。「風邪」が冬の季語だからこそ、「春の風邪」や「夏風邪」と呼ぶのです。冬に風邪をひいた者が、「冬風邪ひいちゃったよ!」なんて言うでしょうか?

唯一、許されるのは、俳句以外の文芸や歌の歌詞などで、「春のうららかな~」と言ったように、間に「の」と言う助詞を用いて使う場合だけです。この場合は、「春に桜が咲いて~」や「冬に風邪をひいて~」と同じ使い方なので、日本語としても間違ってはいませんし、何も問題はありません。
しかし、「春うらら」と言うのは、「春桜が咲いて~」「冬風邪をひいて~」と同じなのですから、日本語としても間違っているのです。

季語の役目は、季感を表すことだけではありません。もちろん、季感も大切ですが、季語のひとつひとつには大切な本意があり、季感の他にも様々な表情を内蔵しています。ですから、「季感さえあれば季語に制定されていなくても構わない」、などと言っている人がいたとしたら、俳句のハの字も知らないドシロートなのです。

ひとつの言葉が季語として認知されるためには、多くの俳人が何度も議論し合い、何年もかけて、やっと歳時記に掲載されるのです。古くなって現在では使われなくなった季語は外され、そして新しく認知された季語が掲載され、ゆっくりですが確実に、歳時記は時代に沿って一歩一歩進化し続けているのです。
さて、先ほどのとんでもないネット句会とは別に、今度は、ある結社のサイトの添削コーナーを覗いてみました。そうしたら、そこにもありました。

  春うらら着メロの音はビバルディ

この句に対してのコメントが、次のものです。

「面白い句ですが、ねらいが見えているようです。このくらい軽い句もあっても良いと思いますが、詩的な感動は薄いです。」

おいおいおいおい! そんなことはどうでもいいから、デタラメな季語について何とか言ってやれよ! もしかして、添削してる人も、ドシロート?

普通は、まず季語が間違っていることを指摘し、次に「着信メロディ」を「着メロ」と省略してはいけないと指摘し、最後にツキスギを指摘するのが最低ラインの指導です。
そして、そこから先が、添削指導者としての腕とセンスの見せどころなのに、これはあまりにもひどすぎます。小学生の読書感想文だって、もう少しマシなことを書くでしょう。

他にもっと呆れたのが、次の添削です。

  春風や犬曳かせてと異国の少女(こ)

この句に対して、少女を「こ」と読ませるのはあまり良くないから他の言葉を探してみろ、とか、一応それなりのことが数行書いてあって、最後に添削例として、次の2句が書いてありました。

  春風や異国の友と犬曳けば
  犬連れて駆け出す少女春の風

あたしは、この2句目を見た瞬間、次の句を思い出しました。

  薄暑光少女走れり犬連れて 町田澄子

町田澄子の句は、平成12年の作品、この添削は先月(平成16年2月)ですから、完全な類句です。類句うんぬん以前に、元の句の持っていた良さも完全に消滅しているし、こんなものは添削とは呼べません。

さらに呆れ返ったのは、このサイトの添削は、なんと有料だったのです! とんでもないことに、1句につき200円も取っていたのです!

お金まで取っておきながら、オリジナリティーのあった原句の良い部分を削り取った上に、どこにも発表できない類句にしちゃうなんて、あまりにもひどすぎます。その上、この添削をした人のプロフィールを見てみたら、なんと、その結社の同人だったのです。

こんなデタラメな添削で200円も取っていいのなら、あたしの添削は、1句1000円もらったって安いくらいです。
あたしは、ひとりでも多くの人に俳句を好きになって欲しくて、俳句の楽しさを知って欲しくて、少しでも上達して欲しくて、だからすべて無料でやっているのに‥‥。それどころか、掲示板のレンタル料やサイトの運営費など、全部自分ひとりで支払って、それでもがんばって運営してるって言うのに‥‥。

あたしの大好きな俳句をお金儲けに利用して、それでも、きちんとした添削をしてるのならまだ許せますが、こんなデタラメな添削をしているなんて、何も知らずにお金を払って投句している人たちが、あまりにも気の毒です。
もともと、ネットの俳句サイトのひどさは良く分かっていたつもりでしたが、ここまでひどくなっていたとは‥‥。あたしは、怒りを通り越して悲しくなってしまいました。
こんなにひどいアリサマを目の当たりにしたので、あたしのやる気に火がつきました。
あたしは、今年の新年の挨拶の中に、次のように書きました。

「あたしは、俳句が大好きです。この想いも、情熱も、勉強量も、読んでいる俳句の数も、誰にも負けません。」

この想いを新たにし、ネットで唯一の「本物の俳句を実践しているサイト」としてのプライドをかけて、これからもがんばって行こうと思いました。

編集・削除(未編集)

裏第四十五話 春の宵にはぶらんこを

「ぶらんこ」は、一年中あるものなのに、なぜ「春」の季語とされているのでしょうか。

一般的には、ぶらんこを漕いだ時の風の爽やかさなど、漠然としたイメージによって決められていると思われがちですが、そうではなく、ちゃんとした理由があるのです。

さて、今回の俳話は、とんでもないところから話を始めましょう。

京都は南禅寺山門の楼上に、悠然と姿を現わした大盗賊の石川五右衛門。長いキセルを片手に、「春宵一刻値千金、あ、絶景かな、絶景かなぁ~」とあたりを見回します。とても有名な、歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の名場面です。

この五右衛門の名セリフの「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」は、蘇軾(そしょく)の漢詩の代表作、「春夜」からの拝借なのです。
さすが天下の大泥棒、金銀財宝だけでなく、セリフまで盗んでいたのです(笑)

蘇軾は、蘇東坡(そとうば)とも言いますが、こちらの名前のほうが一般的ですね。居眠りしないで、ちゃんと学校の授業を聞いていた人なら、名前くらいは記憶にあると思いますが、忘れてしまった人のために、簡単に書いておきます。

蘇東坡(1036~1101)は、中国北宋の詩文の大家ですが、詩文だけでなく、書道家でもあり、政治家でもあり、美食家でもあり、中国歴史上、有数の天才のひとりと言われています。

朝鮮王朝初期の名筆家、安平大君(アンピョンテグン) の書に、「詞翰蘇黄後」と言う作品があるのですが、これは、「文学と書画は、すべて蘇東坡と黄山谷から始まった」という意味なのです。
そんなに偉大で、みんなからリスペクトされてたスーパースターの蘇東坡だけど、お酒が一滴も飲めないと言うカッコ悪い一面もありました。もしかしたら、付き合いにくいヤツだったかも知れません(笑)

この蘇東坡の漢詩、「春夜」の「春宵一刻値千金‥‥」の「春宵(しゅんしょう)」は、「春の宵(よひ)」と言う季語のもとになった言葉なのです。まず、「春の宵」と言う季語が生まれ、ここから「夏の宵」「秋の宵」と言う季語が連鎖的に作られて行ったのです。ですから、季語としての「宵」をイメージする場合は、「春の宵」の持つ風情を基本として、それから、他の季節の「宵」を感じるべきなのです。
寒い冬の間は 足早に通り過ぎていた道も、少しづつ日が伸び、暖かくなって来た春の宵に歩くと、まったく違った風情を感じます。
この時の感覚が、「春の宵」の本意なのです。
何も考えずに、ただ夕方から夜にかけての時間帯だったからと言う理由で、安易に「春の宵」「夏の宵」などの季語を使うのではなく、毎日、同じ時間に同じ道を歩き続け、ふと季節の到来を感じた時に、初めて使える季語なのです。

さてここで、知らない人のために、この「春夜」と言う漢詩をご紹介しましょう。もちろん、痒いところに手が届く「きっこ俳話集」ですから、あたしの名訳も添えておきます(笑)

     「春夜」

  春 宵 一 刻 値 千 金
  花 有 清 香 月 有 陰
  歌 管 樓 台 聲 細 細
  鞦 韆 院 落 夜 沈 沈

     「春夜」  きっこ訳

  この春の宵は
    何ものにも変えがたいひととき

  やわらかい花の香
    月を渡りゆく雲

  どこかの屋上からは
    微かな歌声が流れてくる

  街角の小さな公園には
    誰かが揺らすぶらんこ
      ゆるやかに夜がやって来た

そう! ここに「ぶらんこ」が登場するのです!

これは、たまたま登場したのではなく、中国では、ぶらんこは春の遊具だからなのです。

これも季語になっていますが、冬至から105日目、つまり仲春の最後の日を「寒食節」と言って、中国では、火を使わないで冷たいものだけを食べる「寒食祭」が行なわれます。
「寒食祭」は、日本人には馴染みのないものですが、中国では、とても古くからある行事で、この時に、ぶらんこに乗る競技が行われるのです。

現在では、あまり見られなくなったそうですが、この歴史ある行事によって、中国では、「ぶらんこ」と言えば「春」と言うイメージが定着しているのです。

また、春分から15日後、つまり晩春の初日を「清明節」と言って、この日には、宮中の女官たちが、ぶらんこに乗って遊んだと言われています。

「寒食節」と「清明節」は2日続きの行事なので、歳時記には仲春、晩春と分けられて掲載されていますが、中国ではひとつの行事の1日目、2日目となっているのです。

興味のある人は、お手元の歳時記で、「寒食」と「清明」を引いてみてください。
春にお花見をしたり、秋にお月見をするように、古い中国の人たちは、ぶらんこに乗ることによって、春を感じていたのです。

ぶらんこは、その季感もともない、中国から日本へと渡って来たものだったのです。

「春の宵」も「ぶらんこ」も、何も考えずに、ただ歳時記に載っているから使うのではなく、こう言ったことを知ってから使うと、ひと味もふた味も違って来ます。

季語の本意を実感することは難しいですが、季語の背景を知ることは、調べれば良いだけです。それぞれの季語の背景を知り、その上で使えば、本意に近づくことができるのです。

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裏第四十四話 寒卵

今回(平成16年1月)のハイヒール句会の兼題は、「寒卵」でした。これは、季語の兼題としては、難しい部類に入ります。

途中から句会に参加している人には申し訳無いのですが、ハイヒール句会の兼題は、毎月テーマを決め、少しずつステップアップして来ました。1年前の第1回の時は、「初雀」を兼題にしました。これは、とても扱いやすく、言うなれば、初心者向きの季語なのです。雀は、目に見え、鳴き声が聞こえ、空を飛びます。ですから、その姿を詠むことも、声を詠むことも、動いている状態を詠むこともできます。つまり、一物でも取り合わせでも、類想類句が発生しにくいのです。

しかし、「寒卵」は、目には見えますが、鳴くこともなければ、自分で動くこともありません。
そして、その姿も単色で単純な形をしているので、とても難しい対象となります。そして何よりも、卵と言うものに対しては、ほとんどの人が同じような先入観を持っています。ですから、こう言った対象の場合は、とても類想類句が生まれやすくなります。

今回、「寒卵」を兼題にしたのは、「写生力の強化」と「類想類句の回避」をテーマとしたからです。この2つは、とても密着した関係にあり、写生力がアップすれば、必然的に類想類句を回避できるようになって行きます。

類想類句については、この俳話でも何度も取り上げて来ましたが、やはり、実際に自分が作句して、句会に投句して、体験してみないと分かりません。しっかりと対象を見て、感じて、推敲して、そして自信を持って投句した句が、たくさんの寒卵の句の中に並ぶと、その光を失い、埋没してしまう。
こう言った体験を経て、少しずつオリジナリティー、つまり、その人の作風と言うものが確立されて行き、類想類句など寄せ付けない力となって行くのです。

今回の投句一覧を見ても分かるように、寒卵の句で多く詠まれるのは、「手」「生命」「朝食」「明け方」「割る」「吸う」「どこかに置かれている状態」などです。たった50人が寒卵を詠んでも、これだけイメージが類似するのですから、日本中の何十万人と言う俳人が詠めば、何十万句と言う類想類句が生まれます。その中には、一字一句同じものもあるでしょう。今回の投句の中にも、もしかしたら、どこかの誰かが作った句と、全く同じものもあるかも知れません。

類想類句を怖れずに作句することは基本ですが、だからと言って、何の努力もせずに、思いついたままを俳句にしていたら、ほとんどの俳句は、過去に誰かが作ったものの類似品になってしまいます。
何故かと言うと、人間の考えることなど、所詮は先入観によって支配されているからです。

しかし、類想類句を避ける目的で、突飛な言葉を斡旋したり、デタラメな描写と取り合わせたりしても、それは本物ではありません。本物の俳句とは、他の人たちと同じ土俵の中で作るものです。

今回、あたしが特選に選んだ寒卵の句の中には、「割る」や「手」など、過去に何十万、何百万と詠まれているであろう描写や対象を使ったものがあります。しかし、それが過去の句と違う点は、作者ならではの視点が存在していると言うことです。

同じものを見て、同じ季語を使って、同じ音数で作句するのですから、似てしまうのは当たり前だと言う人もいます。しかし、だからこそ、できる限り類想類句を避けるように努力することが大切なのです。
せっかく苦労して作った句が、過去の誰かの句と瓜二つだったら、何の価値もありません。そのために必要なのが、写生力を鍛え、「自分だけの視点」を手に入れることなのです。

一見、難しそうに感じるかも知れませんが、人間の個性と言うものは、十人十色であり、1億の人がいれば、1億の個性があるはずです。世界中の人を探してみても、あなたと全く同じ人などいないはずです。それならば、あなただけの視点と言うものも、必ず存在するのです。溢れ返る無駄な情報に流され、作り上げられた先入観に支配され、人と同じ物の見方しかできなくなっているだけなのです。

俳句とは、自分の見たもの、感じたことを「自分の言葉」で詠う詩です。そのために必要なのが、人とは違う「自分だけの視点」です。同じものを見て、同じ季語を使って、同じ音数で作句しても、自分だけの視点を持っていれば、それがオリジナルとなり得るのです。
卵を手に乗せて、ずっと見ていて、本当に「命」だの「宇宙」だのと思った人が、果たしていたでしょうか?
もしいたとしたら、それは、俳句用に左脳が作り出した幻影なのです。何とか寒卵と言う季語で俳句を作ろうとして、視覚に左脳が介入したため、目の前の、自分の手の上の卵が、実は見えていないのです。卵とはこう言うものだ、と言う先入観を捨て去ることができず、前もってインプットされた卵と言うもののイメージの中だけで作句しているのです。

「何とか立派な俳句を作ろう」「一句をものにしよう」などと思いながら対象を見ていてら、たとえ日が暮れるまで見続けていても、対象の本質に到達することはできず、結果、類想類句しか生まれません。欲を出さず、頭を空っぽにして卵を見続けていれば、本当の卵の姿が見えて来るのです。それこそが、誰にも真似のできない、誰の類似でもない、自分だけの視点なのです。「自分だけの視点」を手に入れるための最も確実な方法は、「多作多捨」しかありません。俳人の中には、多作を否定し、うんうん唸りながら一句に時間をかけることを良しとしている人もいますが、そんなもの、あたしに言わせれば俳句のハの字も分かっていない偽者です。

俳句と言うものは、考えれば考えるほど主観の泥沼にはまって行くのです。主観からの脱却こそが俳句の存在理由なのに、唸って作っていたら本末転倒です。何も考えずに、頭を空っぽにして、とにかく一句でも多く作ることです。

推敲には何時間かけようと構いませんが、一句を生み出すのに時間をかけてはいけません。一瞬を切り取り、何時間でも何日でも納得の行くまで推敲する。これが正しい俳句の作り方です。

ですから、目の前の卵を見て、とにかく、どんなにくだらない句でも構いませんから、作って作って作りまくるのです。
対象の本質と言うものは、最低でも、100句や200句は作らないと見えて来ないのです。

多作ができないと言う人は、それなりのレベルの句を作ろうとしているのです。ようするに、まだ心のどこかに、「何とか立派な俳句を作ろう」「一句をものにしよう」と言うスケベ根性が残っているのです。
そう言った欲を捨て、先入観から離脱するために多作をするのですから、最初はそれこそ「寒卵落として割つたら大変だ」とか、こんなもので良いので、何十、何百と作って行くのです。そうすれば、必ず無欲の境地へと辿り着き、対象の本質が見えて来るのです。
俳句とは、75点の句を10句作るものではなく、たとえ99句を無駄にしても、120点の句を1句作るものなのです。
極論を言えば、俳句を作ることなど、どうでも良いのです。
大切なのは、対象を正しく見る目を養うことなのです。そのための訓練のひとつとして、俳句をやっていると考えるべきでしょう。そう考えれば、欲を捨てることができます。

現代は、テレビや週刊誌などからのデタラメな情報が溢れ、人の噂や無駄知識などの雑音だらけで、ほとんどの人の神経が麻痺しています。「自分の目で見て、自分が感じて、そして判断する」、と言う当たり前のことができない人ばかりです。
くだらない噂に振り回され、テレビで紹介されたラーメン屋の行列の最後尾につき、オレオレ詐欺にひっかかり、バカげた壺を買わされています。それは、先入観と言うフィルターを通してしか対象を見られなくなっているために、「自分で判断する」と言うことができないからです。
そのために俳句を勉強しているのに、その俳句の世界にまで外側の雑音を持ち込み、様々な情報によって構築された先入観と言うレンズで「対象の虚像」など見続けていても、類想類句しか生まれて来ないのは当然なのです。

あたしの方法論で行けば、俳句の上達とともに、その人間としての資質も上がって行きます。
どこかの結社には、俳句サイトの掲示板に、偽名を使って他人への誹謗中傷を繰り返すような最低の同人もいますが、その作品を見てみると、人間性と同様に、誰にも見向きもされない類想類句しか作っていません。

正しい方法論さえ実践すれば、俳人としてだけでなく、人間としてもステップアップして行けるのが、俳句と言う文芸なのです。

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裏第四十三話 がんばれ!廣太郎

「俳句研究」の平成14年9月号の「平成俳壇の新鋭たち」は、「ホトトギス」を取り上げています。ホトトギスの若手三名が10句を並べ、その序文を編集長の稲畑廣太郎が書いています。

丸々1ページに渡り、ホトトギスがいかに歴史があり、いかに俳句の王道を歩んでいるかと言うことが書かれています。そして、その文章の中に、主宰、稲畑汀子の以下の言葉を引用しています。

「一番大切なことは一人一人が客観写生の技を磨き、虚子が唱えた花鳥諷詠詩を深めることである。ホトトギスはそのための道場である。道場に甘えや馴れ合いは不要である。私は他の結社に見られる様な賞を設け褒めあうことは一切しないことをここに宣言する。」

なんともご立派な「宣言」ですが、俳人は俳句作品で勝負するものです。
あたしは、言うことは言っていますが、自分の発言にともなっただけの作品を作っています。

汀子は、こんなセリフなど言わなくとも、誰も真似できないような素晴らしい作品を次々に発表して行けば、皆、黙ってついて行きます。

客観写生の技を磨き抜き、虚子の花鳥諷詠を深め、甘えや馴れ合いをすべて切り捨てよと会員たちへ言っている主宰の代表句が、「セーターのまた赤を着てしまひたる」ですか?(笑)

俳壇には、ご立派な俳論を掲げている割りには、それに自作がともなっていない主宰が大勢いますが、汀子ほど、言っていることと作品のギャップの大きい俳人は他に類を見ません。

汀子には、前出の句の他に、次の2句があります。

  セーターの白は誰にも似合ふ色 汀子

  セーターの赤をよそほう悲しみも 〃

この句のどこが客観写生なのでしょうか?
それ以前に、これが最大の会員数を誇る結社の主宰の句として、妥当でしょうか?

この2句を踏み台にして、ついに出来上がった渾身の一句が、前出の「また赤を着てしまひたる」 だと言うのですから、もう言葉も出ません。

それから、一応、細かいツッコミもしておきますが、「よそほう」は、正しくは「よそほふ」と表記します。

さて、話は戻り、廣太郎は、ホトトギスの若手三名を紹介するにあたり、次の文章を書いています。

『(前略)今回ご紹介申し上げる三名は「ホトトギス」の編集者、つまり「合資会社ホトトギス社」の社員なのである。毎日送付される膨大な数の雑詠投句の整理、本誌の編集、校正等、多忙を極める中、しっかりと花鳥諷詠作家としての道を歩んでいる人たちである。
恵まれた環境に奢る事なく真摯に作家としての勉強も日々怠る事がない。若い人たちの台頭も著しい、と書いたが、反対に虚子を知るベテラン誌友も多くおられ、お互い切磋琢磨しながらこの道場での花鳥諷詠の修行を通して、一人でも多くの人にこの日本が誇る世界一短い「花鳥諷詠詩」を広めて行く。今回の三名だけでなく、数多くいる若い「ホトトギス」誌友が俳句作家として世界に羽ばたく時代は既に始まっているのである。』

前出の汀子の「宣言」に負けず劣らずのご立派な文章ですが、それでは、この文章で紹介された、「恵まれた環境に奢る事なく真摯に作家としての勉強も日々怠る事」もなく、「切磋琢磨しながらこの道場での花鳥諷詠の修行を」し、「しっかりと花鳥諷詠作家としての道を歩んでいる」と言う三名の作品を見てみましょう。

  三人の男蜜豆注文す 小林一行

  雪道の十メートルにチェーンつけ 荒川ともゑ

  英字新聞に包まれチューリップ 相沢文子

これが、「俳句作家として世界に羽ばたく」人たち、それも、膨大な会員の中から、編集長自らが選び抜いた新鋭三名の作品です。

これは、何かの冗談なのでしょうか?

これらの作品が、どの程度のレベルであるかは、今さら説明する必要もありませんが、あたしが驚いたのは、その俳歴です。

1句目の作者は、ホトトギスに入会して20年、2句目の作者は25年、3句目の作者は5年です。20年も25年も俳句を学んで、その総決算とも言える作品が、これなのです。

さて、2004年の「俳句研究年鑑」の中で、廣太郎の作品について、鳴戸奈菜が批評を書いています。
以下、その全文を紹介しましょう。

     『稲畑廣太郎(昭和32年5月20日生)

  宵闇に丸ビル皓皓と灯り

  ニューイヤーコンサート聴き初風呂へ

  花の闇ふとあの人に会えさうな

あまりに安直である。ことに「皓皓と灯り」というような常用される表現の使用、「ニューイヤーコンサート」と「初風呂」の季重なり、「花の闇」の句の通俗。

  踊見の指の踊つてをりにけり

意味は通じるとしても「踊見」という用語は省略が過ぎないか。中で、

  穀象にササニシキコシヒカリなし

〈半球を崩し天道虫飛翔〉は気が利いているがやや見え見えだ。「ホトトギス」を担う一人であろうから残念。私はホトトギス系の作家の凄い作品を読みたくてならない。』

これほどひどい作品ばかりなのですから、鳴戸奈菜の評は、ずいぶん甘く書いてあると思いますが、最後の一行に思いっきり皮肉が込められています。

「私はホトトギス系の作家の凄い作品を読みたくてならない。」と言うのは、一見、「ホトトギスに期待しているからこそ、あえて厳しい批評をした」と言う自己弁護的な言い回しに見えますが、実際は、「2万人も会員がいるのに、一人としてマトモな俳句を作れる人間がいない」と言っているのです。

廣太郎の作品に対する他の批評を見てみると、同じ「俳句研究年鑑」の2003年では、今井聖に、『「写生」というのは、まず「もの」をよく見ることではなかったのか。』と一刀両断され、客観写生から全く外れている観念的な言葉の多用などを指摘されています。

2002年には、中村和弘に、「~作品の評価基準に隔たりがあるのであろうか。」「~何とも興味が湧かないのである。」「~内的な関わりが見えてこない。」「~通俗もまた気にかかるところである。」などと、言葉は柔らかいにしても、そのほとんどを否定されています。

「俳句研究年鑑」の2002年、2003年、2004年を読み、全く成長していない廣太郎を見ると、20年も25年もホトトギスで勉強している俳人の作品のレベルの低さも理解できます。いくらやる気があっても、向上心があっても、方法論が間違っていれば、何十年と言う努力も、すべては無駄になってしまうのです。

あたしは、俳句が大好きです。そして、その俳句は、正岡子規が作ったものです。ですから、子規、虚子と言う流れは、俳句を志す上で、やはり王道だと思っています。
しかし、現在の俳壇をリードする多くの俳人が、全員、ホトトギス以外の結社に在籍していると言う現実を踏まえれば、本当に子規や虚子の俳句を勉強したいと思う者は、もうとっくにホトトギスには見切りをつけてしまっていると言うことが分かるでしょう。それは、ホトトギスなどに入会しても絶対に俳句は上達しない、と言うことが、主宰や編集長の作品を見れば一目瞭然だからなのです。汀子や廣太郎は、主宰や編集長の作品が、とても大きな影響力を持っていると言うことを分かっていないのでしょう。

たいていの結社は、主宰が亡くなれば、編集長がその座を受け継ぎます。逆に言えば、主宰のイスに座りたくて編集長になるようなタヌキも大勢います。余命の知れた老俳人に、結社設立の話を持ちかけ、作戦通りに自分が編集長を勤め、あとは主宰が死ぬのを待っている俳人をあたしは何人も知っています。
まるで、莫大な財産を持った老人と結婚して、毎日の食事に少しづつトリカブトの毒を盛っている若いお姉ちゃんみたいなものです(笑)

現在の結社は、たとえ主宰が素晴らしくとも、その座を引き継ぐ編集長はと言うと、首を傾げてしまうような句を作っている者がほとんどです。ですから、俳壇はどんどん衰退して行くのです。

次世代も約束されている結社と言えば、高齢の俳人の中で唯一、水準の高い作品を作り続けている桂信子が主宰をつとめ、常にストイックな作句スタイルを崩さない宇多喜代子が編集長をつとめている「草苑」くらいでしょう。

汀子の次は、息子の廣太郎がホトトギスの主宰の座につくことは決まっていますので、あと2~30年で、ホトトギスの歴史は完全に終焉を迎えるでしょう。
廣太郎が、本当にホトトギスを 子規、虚子の流れを絶やしたくないと思っているのなら、ご立派な演説などしている場合ではありません。今からでも遅くはないので、本気で俳句の勉強をして、たった1句でもいいから、あたしの目にとまるような作品を作って欲しいと思います。

虚子の血をひく大変な家系に生まれてしまい、その重責は、あたしたち一般人の想像を遥かに超えたものだと思います。しかし、俳句と言う文芸は、他の芸術と違い、特別な才能や資質などがなくとも、指導者の選択さえ誤らなければ、誰でもが上達できるものなのです。本当に俳句を理解している指導者を師事すれば、誰でもが1~2年で、ある程度の水準に到達することができるのです。それは、この「きっこのハイヒール」で俳句を勉強している人たちを見れば明らかでしょう。
廣太郎も、いつまでも冬彦さんみたいなことをやっていないで、そろそろ乳離れして、本当の俳句を勉強して欲しいと思います。
ホトトギスを出て、10年くらい草苑で勉強してみたらどうでしょうか?
そうすれば、少なくとも汀子よりはマシな作品を作れるようになると思います。

あたしも、鳴戸奈菜と同様に、「ホトトギス系の作家の凄い作品を読みたくてならない」のですから。

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裏第四十二話 きっこからのお年玉(笑)

俳句は、とても奥の深い文芸で、本当に俳句を極めようと思ったら、一生を俳句に捧げる覚悟が必要です。
俳人の中には、俳句の他に短歌など、他の詩型もやっている腰の落ち着かない人もいますが、あたしの知る限りでは、フタマタをかけているような作家は、どちらも中途半端で、ロクな作品を作っていません。

ひとつの詩型と命をかけて対峙していたら、他の詩型などにかまけている暇などありません。あたしが、短歌や川柳、連句や自由詩などを読んだり作ったりするのは、すべては俳句のためです。対岸に位置する文芸にも目を向け、他の詩型の取材の仕方や題材の切り取り方、焦点の絞り方を勉強し、自分の俳句に生かすためです。さらに言えば、本を読むことも音楽を聴くことも映画を観ることも、すべては俳句のためなのです。

さて、「きっこのハイヒール」では、去年(平成15年)の年末に「歳旦三つ物」を募集しました。
歳旦三つ物とは、発句、脇、第三から成る連句で、お正月のあいさつに使われるものです。たくさんの方が、初めてチャレンジしてくださって、楽しい作品が集まりました。

なぜ、歳旦三つ物を募集したのかと言うと、俳句を作る上で、とても大切なことが連句から学べるからなのです。

連句の心とは、決して後戻りしない心です。つまり、それまでの世界を転じて、転じて、転じて、そして前へ進んで行くのです。

発句の五七五を脇の七七が受け、そして次の五七五が大きく転じる。そしてまた、七七がそれを受け、次の五七五が大きく転じ、前へ前へと進んで行きます。そのために、前の内容に戻ってしまうことを「輪廻(りんね)」と呼び、連句ではもっともいけないこととされています。連句を作る場合、その「輪廻」を回避するために、常に「打ち越し」をチェックしながら進んで行きます。

「打ち越し」と言うのは、その句の2つ前の句のことで、歳旦三つ物であれば、第三から見た発句が「打ち越し」になります。
例えば、発句で植物を詠んだら、第三句では植物以外のものを詠む。そうしないと、輪廻が発生してしまうのです。

そこまで厳しくチェックして、打ち越しから大きく転じさせる2つ後の句とは逆に、まるで打てば響く鼓のように、ピッタリと寄り添っているのが、脇の七七です。
連句では、五七五は独立した句ではなく、それを受けた脇の七七とセットになり、ひとつの小宇宙が構築されます。そのために、連句では、「付け句」と言って、既製の俳句に七七を付ける遊びをして、その感性や技術を磨いたりします。俳句は、作者がすべてを言ってしまうのではなく、作者の想いや情景など、何割かを読み手の感性に委ねて作る詩です。このことは、この俳話にも何度も書いて来ましたが、その読み手に委ねる部分と言うのが、連句における脇の七七なのです。

俳句を詠む上で、一句の中に「○○だから××になった」と言う理屈が発生してしまったり、起承転結をすべて言ってしまうと、それだけでひとつの世界を作ってしまい、読み手に想像させる部分、つまり、連句における脇の七七を付ける余地がなくなってしまうのです。

つまり俳句とは、後に続く七七の部分は読み手に任せ、作者は未完成の五七五だけを発表する詩なのです。ですから、読み手がいて初めて完成する文芸であり、どこにも発表せず、句帳に書きとめているだけでは、どんなに素晴らしい作品であっても、それは俳句とは呼べないのです。俳句が俳句であるための、必要不可欠なもののひとつに「切れ」がありますが、この「切れ」も、自分の作る五七五の中だけで考えるのではなく、読み手に対して、つまり、後に続く七七に対して考えて使います。

句末を「けり」で強く切った場合と、「をり」でやわらかく切った場合では、読み手が同じ七七を付けるとしても、その距離感が違って来ます。中七を「や」で切って下五を名詞で止めた場合は、下五の名詞は、読み手が想像する七七の世界に限りなく密着します。

もちろん、これらの場合の「読み手の七七」と言うのは、本当に読み手が七七の付け句をするわけではなく、その句を読んで、そこからイメージを広げて行ったり、文字の裏側にある世界を感じ取ったりする「読み」のことです。あたしは、こう言った難しいことを最初に言ってしまうと、皆さん二の足を踏んでしまって、歳旦三つ物にチャレンジしてくれないと思い、取りあえず基本的なルールだけを書き、募集したのです。そして、たくさんの参加が得られたわけですが、ここからが勉強になります。

それぞれの作品、そして自分の作品を見直すのです。そして、発句を独立した俳句として考えてみるのです。そうすると、次に続く七七は、本来は読み手が感じる部分になります。

つまり、発句と脇が似たようなこと、同じようなことを言っている句は、世界が狭く広がりのない句、と言うことになります。もちろん、初めて作ったのですから、あまり厳しいことは言えませんが、理想的なのは、発句と脇が、まったく関係の無いようなことを言っているようで、それでもどこかで響き合い、広い景を感じさせてくれる句なのです。あたしは、自分の俳句を推敲して行く上で、どちらの形にしようか迷いが生じた場合には、両方の句に七七を付けてみます。そして、広がりのある七七を付けられたほうの形を残すようにしています。

これは、俳句の本質を考えた場合、最短距離で上達できる方法のひとつです。その上、作句力だけでなく、俳句を読む力も養えますし、自分の句を客観的に見ることもできるようになります。

そこらの俳句結社では、他人の受け売り指導ばかりで、このような実践的な指導ができる主宰などいません。また、入門書や総合誌などを読んでも、同じことが言葉を変えて書いてあるだけで、実作の役には立ちません。
今回の俳話は、「きっこのハイヒール」に来てくださる方々への、あたしからのお年玉です(笑)

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裏第四十一話 本当のネット句会とは

先月(平成15年12月)のハイヒール句会は、毎月参加されているメンバーが2人、体調不良でお休みされましたが、それでも38名もの参加がありました。実際の結社の句会でも、たいていは10数名から20数名で行なっていますので、これは素晴らしいことです。

平成15年の1月にスタートした時は、初回と言うこともあり、ネットのお友達に色々と声をかけて無理に参加していただいたりして、それでも21名でした。

それから一年間、一回目から休まずに参加している人、途中から参加している人、一度で懲りて来なくなってしまった人(笑)など様々ですが、続けて参加している人たちは、自分では気づいていないかも知れませんが、驚くほどのスピードで上達しています。
一般的にネット句会と言うと、やはりお遊び的な要素が強く、頭の中だけで作った言い回しと出来合いの季語を合わせて作り、読み手を唸らせたら高得点、と言う世界が主になっています。それは、投句して選句して終わり、と言う、点数がすべての点取り句会ばかりだからです。

そう言った座に参加していると、いかにして読み手を唸らせるか、いかにして得点を集めるか、と言う作り方になってしまい、俳句の本質からは遠ざかって行くだけなのです。

また、こう言った多くの無責任なネット句会とは違って、披講後に句評などを行なっているネット句会もありますが、それは、もっとひどいありさまです。あたしは、何ヶ所ものネット句会を見て来ましたが、そのほとんどは、正しい評がなされていませんでした。披講後に句評が無いのも問題ですが、間違った句評をするのは、もっと問題があります。
某ネット句会では、運営者がそれらしい指導めいたことをしていますが、自分の結社の主宰の受け売りばかりで、ひとりひとりの個性など全く無視しています。
作者の立場に立たず、自分の愛する主宰の受け売りを押し付けているだけなので、結果、もともと類想句だったものが、よけいに個性の無い、どこかで見たような句になって行くだけなのです。

そのネット句会では、毎回のように有名な句の類想類句が投句されますが、運営者は類句の指摘を一切せず、それらの句が高得点になったりもしています。
その異常なシステムを知らない新入りが、親切心から類句の指摘などしようものなら、全員から吊るし上げられ、まるで犯罪者扱いです(笑)
初心者が、類想類句を投句してしまうことは仕方ないとしても、その句に得点が集まると言うことは、参加者全体、言い換えれば、句会そのもののレベルが低いと言うことです。それが、そこらの三流結社の主宰の句に似ていた、と言うのであれば、まだ許されますが、芭蕉や去来、子規や虚子の句と、中七と下五が一字一句同じだったりするのです。あまりにもソックリで、あたしなどは本歌どりかと思ってしまったほどです(笑)

俳句を作っているだけでは、いつまで経っても進歩はしません。「選は創作なり」と虚子が言っているように、作句力をつけるためには、俳句を作ること、俳句を読むこと、俳句を選ぶこと、この3つが必要なのです。しかし、最近の俳人は、俳句を作るだけで、人の句を読まない人がとても多いのです。ですから、類想類句ばかり作っているし、選句力もないのです。
その上、句会の運営者までもが類想類句の指摘をしなかったら、句会の意味などまったくありません。

いかに俳句を読んでいないか、いかに正しい指導を受けていないかと言うことは、その句会の選句を見れば、一目瞭然なのです。類想句が高得点になるような句会は、参加者全体のレベルが低く、指導にも問題があると言うことなのです。

こんなネット句会の現状に嫌気がさして、何とか本当に意味のある、そして参加者のためになる句会をと考えて立ち上げたのが、ハイヒール句会です。

ですから、ハイヒール句会では、あたしの選が絶対です。いくら高得点になっても、あたしが良いと思わなかった句は、それだけの句だと言うことです。類想類句の指摘も、過去の作品を挙げ、徹底的に行なっています。
その代わり、無得点の句でも、それぞれの作者の想いに少しでも近づけられるように、選後にできる限りのアドバイスをしています。
結社に洗脳されている偏った運営者とは違い、あたしには「無所属」と言う強みがありますから、それぞれの作者に合わせた、ベストの指導、添削が可能なのです。

以前、作者の想いを無視したひとりよがりな添削で、作者から告訴された鷹羽狩行のお粗末な話を紹介しましたが、それと似たり寄ったりのことが平然と行なわれているのが、洗脳俳人の運営する、結社の支店のようなネット句会なのです。そんな句会に参加していたら、自分の個性をむしり取られ、類想類句製造マシーンにされてしまうだけでなく、完全に洗脳され、挙げ句の果てには、その結社に入れられてしまうのがオチなのです。所属結社の主宰や、先輩俳人、総合誌などに添削を依頼して、できあがった作品が、あまりにも自分の想いとかけ離れてしまっていて、お礼を言いつつも、どうしても納得できなかったことのある人は多いと思います。そして、そんなことを繰り返すうちに、自分らしさ、自分の感性を失って行くのです。

それは、ほとんどの指導者ヅラしてる俳人が、あたしから言わせれば、ヒトサマの作品を添削できるほどの能力や感性など持ち合わせていないからなのです。作者の想いなど無視して、自分勝手な主観や自分の主宰の受け売りで添削する、ただの押し売りなのです。

あたしの添削は、ひとりひとりの想いを最も重要視して、それぞれの作者の想いに、できるだけ近づけるようにしています。たとえそれが、あたしの感性や方法論に反するとしても、その作者が一番言いたい、伝えたいと感じたことを優先します。
ですから、ハイヒール句会に参加されている人たちは、皆さん個性を失わず、それぞれの魅力を伸ばして行っているのです。

裏ハイヒールのWEB句集に作品を発表されている、遊起さん、光さん、かもめさんは、皆さんまったくの初心者で、「きっこのハイヒール」で俳句を始めました。それが、1年もしないうちに、あれほどの作品をまとめられる力をつけたのです。

結社なんかに無駄金をつぎ込まなくても、ネットで勉強するだけでも、本当のネット句会とめぐり合うことができれば、俳句は必ず上達するのです。

どこかのネット句会に参加していても、なかなか上達しない人、自分の想いとは違った添削を受けている人は、もう一度、その句会自体を見直し、「ネットにありがちなお遊び句会」や「結社の支店の洗脳句会」であれば、手遅れにならないうちにやめるべきでしょう。

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裏第四十話 絵画的写生俳句

芭蕉、蕪村、一茶の三人は、誰でも知っている江戸の俳諧師ですが、この三人の句風を比べると、もっとも現在の俳句に近いのは、間違いなく蕪村でしょう。

それは何故かと言うと、蕪村は、画家としても優れた才能の持ち主だったからです。その作風は、対象を絵画的に切り取っているため、一読で、文字から直接、景が立ち上がって来るのです。これは、現在の写生を基本とした俳句に、もっとも近い作り方であり、現在でも十分に通用します。

  菜の花や月は東に日は西に 蕪村

  ぼたん散ってうちかさなりぬ二三片 〃

  夏河を越すうれしさよ手に草履 〃

  春の海ひねもすのたりのたりかな 〃

  五月雨や大河を前に家二軒 〃

子規の確立した「俳句」は、それまでの観念的な言葉遊びである「俳諧」から、理屈と主観を排除し、写生と言う絵画の技法を取り入れることによって生まれた文芸です。

ですから、単純に言えば、まったく絵心の無い人よりも、絵を描くことを得意とする人のほうが、俳句を作るのに適していると言うことになります。

蕪村の場合は、一応は絵や書を描いて生業としていましたが、その心は、俳諧を第一と考えていました。ようするに、俳諧こそが主軸であり、絵や書は、生活のため、そして、自己の俳諧を完成させるためのエッセンスだったのです。

それでは、俳句の世界ではどうでしょう。
俳句の世界にも、余技としての絵画がプロ顔負けの俳人がいます。
野見山朱鳥(あすか)は、絵画だけにとどまらず、棟方志功の版画ブームが起こり、猫も杓子も版画家を目指した時代に、そこらのニワカ版画家とは一線を画した素晴らしい作品を数多く発表しています。
「日本版画協会展」や、木版画を板画(ばんが)と呼んでいた、棟方志功の主催する「日本板画院展」にも入選していて、俳人でありながら、版画集を3冊も出版しているのです。

その上、全国の俳人の憧れであったホトトギスの巻頭に、何度も輝いています。虚子からの評価は高く、朱鳥の第一句集「曼珠沙華」には、次のような序文が見られます。

「序/曩(さき)に茅舎(ぼうしゃ)を失ひ今は朱鳥を得た。/昭和二十五年七月二十七日/鎌倉草庵 高濱虚子」

‥‥てことは、あの天才、川端茅舎と同格ってこと?

悪いけど、あたしは納得できません! 
あたし的には、茅舎の句を10点としたら、朱鳥の句は3点くらいです。
いくらホトトギスの巻頭になったって言ったって、当時の虚子は70才を越えていて、正直、正しい選なんかしていません。

ワンマン全開の虚子は、自論を肯定させるためなら、歴史的事実もねじ曲げ、平然と大嘘をつくほどの分厚いツラの皮の持ち主です。還暦を越えたころから、そのワンマンぶりに拍車がかかり、誰も認めないような変な句を選び、どうだ!俺様の選は絶対なのだ! なんてワケの分からないオヤジになっちゃいました。ようするに、自分がロクな句も作れなくなっちゃったから、一風変わった選で自己顕示欲を満たしていたのです。

バブルの頃の、社員を整列させて、カラオケで「マイウェイ」を熱唱する、叩き上げの土建屋の社長みたいなもんです(笑)
虚子は3回、朱鳥の句をホトトギスの巻頭に選んでいますが、それが次の句です。

     昭和21年12月

  火を投げし如くに雲や朴の花

  なほ続く病床流転天の川

     昭和26年3月

  われ蜂となり向日葵の中にゐる

  爪に火を灯すばかりに梅雨貧し

     昭和28年7月

  生まれ来る子よ汝がために朴を植う

  雪を来し足跡のある産屋かな

おいおいおいおいっ!

主観丸出しの押し付け俳句や陳腐な見立てのうんざり俳句、どこが花鳥諷詠なの?

朱鳥は、絵画も版画も素晴らしいけど、カンジンの俳句は、申し訳ないけど話になりません。

虚子が認めても、あたしは認めません。
九州造形短期大学学長で田川市立美術館館長の谷口治達氏は、福岡県俳句協会会長で「円」の主宰の岡部六弥太氏との対談の中で、野見山朱鳥について、次のように語っています。

「(前略)遺された意欲的な油絵や版画を見ると、朱鳥ファンには失礼だが、本来は画家になるべき人が、代償的進路の俳句に進んだのでは…。画家の道を歩めば一家をなしていたでしょう。(後略)」

さて、恒例の長~~~い前置きも終わり、そろそろ本文に入ろうと思います(笑)

蕪村が、余技の絵画や書の技法を自らの俳諧にフィードバックさせていたのに対し、朱鳥は、絵画や版画は素晴らしかったのに、それがカンジンの俳句に生かされていなかったのです。
それでは、俳人の中で、蕪村のように、本業も余技も素晴らしい作家はいるのでしょうか?

それは、残念ながらいないのです。しかし、逆のパターンなら、いるのです。

つまり、本業は画家であり、もちろん絵画は素晴らしく、その上、余技の俳句も素晴らしい人がっ!

それが、竹久夢二なのです。夢二の絵画に関しては、今さら語ることもないでしょうが、案外知られていないのが、夢二の俳句なのです。

平成6年に筑摩書房から刊行された「夢二句集」には、彼の遺した1256句がすべて掲載されています。
そのうち、100句以上が、なかなか水準の高い作品で、ハッキリ言って、俳句が本業の朱鳥よりも、レベルは上です。
この夢二の句集は、出来の良い句だけを選んで編集する一般の句集と違い、歴史的参考資料のような形なので、どんなにヒドイ句であっても、確認のとれたものはすべて掲載しています。それで約1割が良い作品だと言うのは、とても打率の良いバッターだと言うことになります。

それでは、何句か紹介しましょう。

     夢二 12句 (きっこ選)

  春風の来ては花粉(はなこ)をこぼしける

  小便の燦爛(さんらん)として春の月

  病院へ咲いて見せたる桜かな

  病める子の鏡にうつる青葉かな

  花魁(おいらん)の出窓に小さき金魚鉢

  ほつれ毛に遊ぶ風あり青すだれ

  馬市の彼方に白き秋の海

  指がまづそれと気のつく春の土

  青芦やふきよせられし蟹の泡

  こすもすや人も柱によりかかる

  足音のうれしき宵や吾亦紅(われもこう)

  ぬぎすてた足袋にひとりの夜寒かな

とても、余技とは思えない水準の高さです。

そして、これらの句を読んで分かることは、蕪村の句のように、対象を絵画的に捉えていると言うことです。

仮に、対象を見て写生するのではなく、頭の中で考えて作っていたとしても、左脳俳人のように頭の中で言葉や文字をパズルのように組み立てるのではなく、頭の中に映像を映し出し、それを写生しているのです。

これが、画家の目であり、子規の提唱した俳句の方法論なのです。

絵画の写生の場合は、目の見えるものをそのまま紙に描くわけですが、俳句の写生は、目に見えるものを言葉に変換しなくてはなりません。
そのために、簡単な景色や静止している状況などの場合は良いのですが、対象が複雑な景色や動きをともなっている場合、どうしても説明的になりがちです。しかし、画家の場合は、まるで絵を描くように言葉に変換して行き、もし出来あがった句が自分の映像イメージと違う場合は、適切な表現が見つかるまで推敲するのです。

パソコンの前に座りしりとり俳句を作っていても、頭の中に映像イメージを立ち上げ、それを言葉に変換する人と、ただ単語を組み合わせてパズルのように五七五を作る人がいます。この時、前者は右脳、後者は左脳が働いているのです。

たとえ頭の中だけで作っていたとしても、リアリティーを感じる蕪村や夢二の句。

ちゃんと対象を見ながら作っていても、先入観や観念に支配され、リアリティーの欠落した作品しか作れないを多くの現代俳人たちは、もう一度、蕪村を読み直してみるべきでしょう。
俳句を始めて、ちょっと本格的にやってみたくなった人は、たいていどこかの俳句結社に入会します。
しかし、俳句結社は全国に800以上もあり、そのレベルもピンキリですから、どの結社を選ぶかと言うことが、その人にとって、その後の俳人生命を決定してしまうほど重要なことなのです。それは、俳句に限らず、すべての習い事に共通することですが、初心の時に間違った指導を受けてしまうと、あとからの軌道修正に大変時間が掛かるからです。

たとえば、間違った結社に入会してしまい、そこで5年間指導を受けてから、やっとその結社の間違いに気づいたとします。それから正しい結社に入り直しても、それまでの5年間で染み付いてしまった悪いクセは、なかなか抜けるものではないのです。間違った結社で5年間も洗脳し続けられた人よりも、何も知らないまっさらな状態で入会した初心者のほうが、正しい指導をどんどん吸収し、遥か先へ行ってしまうのです。

つまり、間違った結社に入会してしまった人は、5年間在籍していたとしても、5年以上の遠回りをすることになるのです。

俳句には終わりなどなく、一生勉強し続けて行く文芸です。ですから、たった1年だって、1日だって、1秒だって無駄にはできないのです。

あたしは、間違った結社に何の疑いも持たず、10年も20年も在籍している人たちを見ると、一度きりの大切な人生をなんて無駄にしているんだろうと思って、気の毒になってしまいます。

良い結社を選べは、その人の俳句はどんどん上達し、その結社自体が大きなバックボーンとなります。

しかし、悪い結社を選んでしまったら、間違った指導によってその人の感性や個性は消え去り、それだけでなく、やれ懇親会だ、やれ先輩の出版記念パーティーだと、何かにつけて上納金を巻き上げられてカネヅルにされてしまいます。こんな結社は、バックボーンどころか、弱い者に取り憑くタチの悪い悪霊のようなものです。

結社を選ぶと言うことは、これほど重大な意味を持つことなのに、ほとんどの人は、何も考えないで所属結社を決めているのが現状です。それは、俳句を始めたばかりの人は、世の中にどんな結社があるのか、どんな主宰がいるのかも分からない場合がほとんどで、たいていは、最初に俳句に誘ってくれた人の言うままに、その人の結社に入会してしまうパターンが多いからなのです。
その結社が、たまたま良い結社であれば問題ありませんが、世の中の結社のうち7割は新興宗教系の「洗脳結社」、2割は遊びの延長の「俳句ごっこ結社」であり、ちゃんとした結社は1割にも満たないのです。ですから、自分で選ばずに、他人の言うままに入会してしまうと、9割は失敗してしまうのです。

ひどい人になると、誰かに誘われて結社に入り、入ってから初めてそこの主宰のことを知り、焦って主宰の句集を買って、どんな句を作る人なのかあとから知った、なんて人もいるほどです。結社に入会すると言うことは、その結社の主宰と師弟関係を結ぶことなのです。それなのに、相手がどんな句を作る人かも知らずに弟子になるなんて、呆れてしまって、開いたお口がクチュクチュモンダミンです(笑)
それでは、何も分からない初心者は、どのようにして、たった1割にも満たない「良い結社」を見つければ良いのでしょうか?

一番簡単なのは、あたしに聞くことです(笑)

あたしは、著名な主宰が自分の結社の会員に新人賞をとらせるためにした汚い裏取り引き、有名結社の泥まみれの裏の人間関係、女性会員へのセクハラが日常的なテレビでお馴染みの主宰、弟子の句をパクって総合誌に発表した厚顔無恥な主宰、ストーカー行為を繰り返して警察沙汰になったクセに権力でもみ消した若手のホープなど、俳壇と言う名の悪の巣窟に関することは、すべて知り尽くしています。
この結社の主宰は弟子の句を平気でパクるからやめたほうがいいとか、この結社には○○と言うセクハラ野郎がいるから入らないほうがいいとか、実名をあげてアドバイスします。
この結社は何かと言えば懇親会やパーティーばかり開き、すべての会費が多めに設定してあって、その差額は全部主宰のフトコロに入るからやめたほうがいいとか、そんなアドバイスまでしちゃいます(笑)

さて、笑えない冗談はこれくらいにして、初心者が、自分の目で、良い結社を選ぶポイントをひとつだけアドバイスしましょう。

まず「俳句年鑑」を買います。
これは、角川俳句や俳句研究などから毎年年末に発売になるもので、そろそろ2004年のものが出る時期です。1冊2000円ちょっとしますが、くだらない結社に入ってしまって何十万円も無駄にすることを考えれば、安いものです。

この雑誌には、全国の主要結社、約700が紹介されていて、それぞれの結社の主宰や主要同人のその一年の代表句5句が紹介されています。
それをすべて読み、自分が感銘を受けたり、こんな句を作れるようになりたいなと感じた俳人がいたら、印をつけて行きます。俳人の名前の横には、その人が主宰をつとめていたり、所属している結社の名前が書いてありますので、後ろの結社一覧を見れば、どんな方向性で俳句を作っているのかが、ある程度は分かります。

しかし、ここがポイントなのです。多くの悪徳結社は、新興宗教とほとんど同じシステムで運営していて、一人でも多くの会員を増やし、1円でも多く金を巻き上げようとしています。結社一覧とは、そのための勧誘のページなのです。ですから、悪徳結社が本当のことなど書くわけがありません。みんなキレイゴトばかり書いているのは当然で、初心者がそれを見抜くことは不可能です。

そこで、これはと思ってチェックした結社すべての「見本誌」を取り寄せるのです。
「見本誌」とは、ようするに売れ残った結社誌のことですが、結社によっては無料のところもありますし、500円、1000円とお金を取るところもあります。支払い方法も、郵便為替だったり料金分の切手だったりとマチマチです。

でも、お金なんか払うのはバカバカしいですよね?(笑)

そんなワケで、久しぶりに「きっこ家の食卓」の裏ワザを公開しちゃいましょう♪

ハガキに、「先日、たまたま手にした俳句雑誌で、○○先生(その結社の主宰の名前)の俳句を目にし、とても俳句に興味を覚えました。俳句については何の知識も無いのですが、私のような者でも、俳句を作れるようになるでしょうか?」的なことを書いて、事務所宛てに送るのです。そうすれば、たいていの結社は、タダで見本誌を送って来ます。どこの結社だって、一人でも会員を増やしたいから、必死なんです。
まあ、どんな方法でも構いませんが、とにかく、これはと思った結社の見本誌が揃ったら、まずは主宰の句を読み、それから会員たちの句もすべて目を通します。その時、特に重要なのは、後ろのほうに一番小さな文字でならんでいる一般会員の句なのです。

一般会員の句が、どれも似たようなものばかりで区別がつかないような結社は、「捨て!」です。逆に、一般会員の句が、たとえつまらなくても、バラエティーに富んでいる結社は、「保留!」とします。

結社は主宰がすべてですから、良い結社とは、つまり良い主宰がいる結社と言うことになります。良い主宰とは、ただ作品が素晴らしいだけでなく、正しく俳句を理解し、人間的にも尊敬でき、会員ひとりひとりの感性を尊重し、それぞれの個性を伸ばすような指導ができる人のことです。
自分の考え方を押しつけ、ひとりひとりの個性を奪い、自分の類似品を作るような指導しかできない主宰は、たとえ優秀な俳人だったとしても、優秀な指導者ではありません。

一般会員の欄に、似たような句が並んでいる結社は、ひとりひとりの個性を伸ばすことのできない、指導方法の間違った主宰の結社なのです。こんな結社に入ったところで、どこかで見たような、オリジナリティーのカケラも無い句しか作れるようにならないばかりか、その人の持っていた魅力さえも奪われてしまいます。

誰が、何のために、どうして俳句を作ろうとしているのか。

それを考えれば、どんな結社に入るべきか、見本誌が教えてくれます。

どこかで見たような誰かの類似品を作りたいのなら、俳句など選択せず、プラモデルでも組み立てていれば良いのです。
主宰の書いた設計図通りに、言葉と言う部品を組み立てるだけなら、別にあなたじゃなくても、誰でも良いのですから。

「主宰がすべて」「主宰のお言葉は絶対」、こんなアホな結社に入り、まるで新興宗教の集会のような句会に出席し、どんどん洗脳されて行く人たち。
今日もどこかで、個性の欠落したクローン人間たちが、句会と言う集会場で、類想類句の山をセッセと築き上げています。それはまるで、王様のためにピラミッドを作っている奴隷たちのようで、その異常な光景には恐怖すら覚えてしまいます。

あなたは、人間やめますか?
それとも、結社をやめますか?(笑)

編集・削除(未編集)

裏第三十九話 プチ山頭火

中学生や高校生の女の子たちが、本格的な家出じゃなくて、ちょこっと家出するのが「プチ家出」、ちょこっと整形するのが「プチ整形」、ちょこっと売春するのが「プチ売春」、ちょこっと人を殺すのが「プチ殺人」、他にも色々あるけれど、ようするに、やってることは同じなのに、「プチ」って言葉をくっつけて、自分の罪悪感を無くすために、子供たちが考えたサル知恵です。
一時期、「売春」って言葉の罪悪感を無くすために、同じ行為を「援助交際」って言ったのと同じことです。

まあ、こんなアホな子供たちが増えたのも、自分の子供の教育もできないバカ親たちの責任ですが、これとまったく同じことが、俳句の世界にも見られるようになって来たのです。
現在の俳壇には、正しく俳句を理解し、正しい指導のできる俳人がほとんどいなくなってしまったため、次世代を担うはずの若い俳人予備軍が、軒並み「プチ山頭火」と化してしまっているのです。

種田山頭火と言えば、ちゃんとした俳句も作っていますが、やっぱり有名なのは自由律です。(あたしは自由律や無季は俳句と認めていないので、自由律俳句とは呼ばずに、単に自由律と呼んでいます。)

何故、山頭火は自由律ばかり有名なのかと言うと、女遊びと酒に溺れ、破天荒で自堕落な生活を続けた山頭火の代表作としては、有季定型のマトモな俳句じゃ役不足だからなのです。そのために、山頭火を紹介する企画などがあるたびに、形の崩れた作品ばかりにスポットを当てたため、いつの間にか、山頭火イコール自由律と言う図式が出来上がってしまったのです。これは、尾崎放哉の場合も同じです。そして今、ネットを中心に増殖しつつあるのが「プチ山頭火」なのです。
「プチ山頭火」とは、本気で自由律や無季をやる度胸はなく、かと言ってキチンと有季定型俳句を学んだワケでもなく、ネットのお遊び俳句サイトなどで俳句を始めたため「俳句は五七五で季語が入ってればいいんですよ。少しくらい字数がはみ出しちゃってもいいんですよ。」なんてデタラメを教えられて、テキトーに作ってみた初めての俳句モドキを「なかなかいい感性ですね。」なんてお決まりのセリフでホメられたのをその気にしちゃってる、気の毒な人たちのことです。

日本人のDNAに組み込まれた島国根性は、妙な集団意識に支配されていて、自分だけがみんなと違うことを怖れます。ようするに、村八分が恐いのです。そのクセ、目立ちたい気持ちも人一倍に持っています。
その相反する潜在意識によって、「安心できるジャンルに身を置きつつ、ちょっと目立ちたい」と言う、極めて都合のいい状態を作り、自己満足したいのです。

つまり、ヤンキー高校生が、学生服を改造するのと同じ心理なのです。
制服と言う、みんなと同じ安心できるジャンルに身を置きつつ、その制服を改造して、ちょっと長くしたり短くしたりって言う、ようするに、甘やかされて育った、自我ばかりが発達した、腰抜け野郎のスタイルができあがるのです。

村八分が怖いのなら、みんなと同じに普通の制服を着ていればいいし、本当に目立ちたいのなら、裸で道を歩けばいいのです。そのどちらもできない甘えんぼが、制服を改造し、狭い世界の中で、鼻息を荒くして虚勢を張り、自己満足しているのです。
プチ山頭火たちは、俳句と言う制服を着ることで安心感を得ているのにも関わらず、俳句のルールを無視した、中途半端な表現で目立とうとします。
プチ山頭火たちは、ちゃんとした俳句の基本を勉強していないか、もしくは間違った指導者を師事しているため、季語の入った17音の散文を「俳句」だと思い込んでいます。
ようするに、何のバックボーンも無いアホどもが、神聖なる俳句の世界に、自己顕示欲の赴くままに、自由律の観念を持ち込もうとしているのです。

プチ山頭火たちの句の特徴としては、文語と口語が入り混じっていること、季語の本意を全く理解していないこと、切れが曖昧なことなどがあげられますが、とにかく一読しただけで、観念だけで作られたウサン臭さがプンプン匂っているので、すぐに分かります。
次にあげる、句は、某ネット句会の先月の高得点句です。

  青蜜柑少女の恋は背伸びする

  かくれんぼ萩をこぼしてもういいよ

  会いたくて月に吠えてもいいですか

  姑です眠り姫です葉鶏頭

これらが、伊藤園の「お~い、お茶」の缶に書いてあるなら理解できますが、仮にも「俳句」と名乗っている句会に投句され、さらには高得点になっていると言う事実。その句会には、ちゃんとした俳句を投句している人もいますが、正しい評価はされていません。

自分だけが可愛い大人たちは、若い子たちの暴走に対して、理解あるフリをして点数を稼ごうとします。でもあたしは、あたしの唯一のサンクチュアリである俳句を汚されることは、絶対に許しません。
これは、あたしからの最後通告です。

「真剣に生きていないやつらは、俳句をやるな!」

本物の俳人は、命をかけて17音を編んでいるのです。血を吐く想いで言葉を紡いでいるのです。

ゲームセンターのバカげたゲームで遊ぶように、くだらない言葉遊びをして、自己顕示欲を満たしたいだけなら、申し訳ないけど、他のジャンルでやって下さい。

本当の俳人と言うものは、あなたたちのように、ぶ厚いツラの皮を持っていないのです。

編集・削除(編集済: 2022年09月28日 20:31)

裏第三十八話 第49回角川俳句賞受賞作品「色鳥/馬場龍吉」を読む

龍吉さんが、第49回の角川俳句賞を受賞しました。その受賞作品50句と、選考の様子が掲載されている11月号が発売されたので、さっそく買いに行って来ました。

俳句雑誌は、すべて図書館に読みに行っているので、あたしがお金を払って俳句雑誌、それも「角川俳句」なんかを買うと言うことは、よほどのことなのです。天変地異の前ぶれかも知れません(笑)

‥‥なんて前置きは玉置宏に任せておいて、せっかく買って来たので、龍吉さんの受賞作品を鑑賞してみたいと思います。

「色鳥」と言うタイトルの50句は、秋から始まり、冬、春、夏へと続いて行く、その名の通り「彩り」にあふれた作品でした。

‥‥ツカミはOK? それとも、ひと足早い北風が吹いた?(笑)。さて、ここからは真面目に行きますが、選考委員の宇多喜代子が触れているように、50句の中に、「影」と言う文字を使った句が多く出て来ます。

  石ころに石ころの影一遍忌

  水底に影の生れて澄みにけり

  手のとどくところに影や冬木立

  日向ぼこしてゐる影のありにけり

  炎にも影ありにけり女正月

通常は、50句の中になるべく同じ文字を使った句を置かないようにするものです。しかし、この作品は「影」と言う文字を使った句が5句もあり、その上、ただ文字だけが重複しているのではなく、それぞれの句の眼目を「影」に置いているのです。

それでも、それほど重複を感じさせないのは、影と言う実体の無いものを詠めば、読み手の視点は、その影を作り出している対象へと移行するからなのです。
その影の主までが同じであれば、重複感は増してしまいますが、この5句は、それぞれ、石、水、木、人、火、と言うまったく別の対象を切り取っているのです。

石ころを写生すれば、そこには石ころしか存在しませんが、石ころの影を写生すれば、必ずそこに、影を生み出すための、太陽や電灯などの光源が見えて来ます。そして、同じ太陽であっても、季語の力により、真夏の灼熱の太陽であったり、消え入りそうな冬の太陽であったりと、読み手に対して多くの情報、情景を伝えてくれるのです。

影を詠むことにより、対象を中央に置いた光と影の相対関係が生まれます。それは、対象を陰と陽の視点から捉える、立体的な切り取り方なのです。

「影」と言う漢字には、他にも「陰」「蔭」「翳」などの表記があります。小理屈を眼目とした左脳俳人たちは、いかにも何か深い意味があるように見せたくて、こぞってこれらの漢字を使い分けます。

しかし、本来「影」と言うものには意味などなく、表記を変える必然などありません。意味があるのは、影の主と、その光源なのです。ですから、必然も無いのに表記を使い分けるなどと言う小技でごまかさず、あえて同じ文字で表記した作者は、写生の本質、文字の本質を十分に理解していると言えます。

次の2句は、龍吉さんが、2月と3月のハイヒール句会に投句してくださった作品です。

  団欒や雛の一つに影二つ

  佇める影を流れて春の水

1句目は、一つの雛人形に二つの影があると言うことから、複数の部屋に電気がついている一家団欒の風景が見えて来ます。
2句目は、自分自身の影の上を流れていく川の様子から、光源(太陽)の位置や作者の立ち位置などが明確になり、一句に立体的な構成をもたらしています。

「影」を詠むと言うことは、「影」から「影の主」、そして「光源」へと、一連の視点の流れを生み出します。50句の中には、「影」と言う文字を使っていなくとも、同じように影から光へ、光から影へと、視点の流れを感じさせる句が見られます。

  手花火のそれはまぶしき子どもかな

  日傘より一人は海へ走りだす

  四阿のひとを呼びだす浮巣かな

  葉の裏へ蛍の光まはりたる

これらの句には、始めから動きがあり、その動きが陰と陽を表現しています。反対に、一遍忌、冬木立、日向ぼこ、の「影」の3句は、句の中には動きがありません。しかし、読み手の視点が、影→対象→光、と流れて行くために動きが生まれます。つまり作者は、動いている対象に対しては、その移動の過程に陰陽を表現し、動かない対象に対しては、その影を詠むことにより、視点の動きを生み出すとともに、陰陽を表現しているのです。

そして、前出の他の「影」の2句は、それぞれ水と火を対象にしています。この2つの対象は、それ自体が個性的な性質を持っているので、たいていの詠み手は、水自体、火自体を詠むことが多く、なかなかその影にまでは目がおよびません。

つまり、同じ文字を使った句が多くとも、それぞれが別の必然を備えており、「同じ文字を使っている」と言う部分以外は、まったく別の独立した句なのです。たとえ文字が重複していなくとも、その発想や組み立て方の同じ句が50句中に5句もあれば、予選を通ることもできないでしょう。龍吉さんの50句には、他にも、同じ言い回しを使った句や下五の処理が同じ句などもありますし、季重ねの句も6句もあります。しかし、それらがほとんど気にならずにスルッと読めたと言うことは、それぞれの言い回しや季重ねに必然があり、句の焦点が絞られている独立した句だと言うことなのです。

実際、季重ねに関しては、3人の選考委員が誰も触れていません。それだけ必然性が高く、一句として自然体である、と言うことなのです。

50句を通して感じられたことは、リアリティーの高さです。それは、たとえ対象を見ずに頭の中で作っていても、左脳俳人たちのように小理屈や小主観に支配されて嘘八百を並べているのではなく、過去に見た風景や体験したことなどを右脳の中にイメージとして浮かび上がらせ、その感覚をベースに作句しているからなのです。この方法も、写生のひとつの形なのです。
50句の中で、左脳に比重を置いて作られた句はたった1句だけであり、あとはすべて右脳に作句の重心が置かれています。
ちなみに、左脳で作られたと感じたのは次の句です。

  いかのぼり小さくなつて重くなる

この句には、リアリティーを感じませんでした。もちろん龍吉さんは、子供のころ、何度も凧揚げをしたことがあると思います。しかしこの句は、子供のころの凧揚げの感覚を右脳の中に蘇らせて作ったのではなく、イメージ喚起の段階で左脳が介入し、言葉を組み立てて行く過程では、左脳が主導権をとってしまっているように感じました。

リアリティーの高さの次に感じたことは、季語が良くこなれている、と言うことです。
それが、季重ねであっても、読み手にそれを意識させないのだと感じました。
一句一章ならともかく、取り合わせの句においても、いかにも「これが季語ですよぉ~!」と言うわざとらしい斡旋ではなく、一句の中に溶け込んでいるのです。

  初潮や文箱の螺鈿にじいろに

  釉薬を如雨露で流す菊日和

  曳き船が船を曳きゆく暮の春

これらの季語の斡旋は、いわゆる「季語が動かない」と言うよりも、季語が一句の中に溶け込んでいるのです。これは、龍吉さんの句の持ち味であり、大きな魅力となっています。

今まで挙げた句の他で、あたしが特に水準が高いと感じたのは、次の9句です。

  色鳥の五六七八まだまだ来

  水口を落ちてはるかに水の渦

  威銃蜘蛛の囲に引つ掛かりゆく

  枯草のつらぬいてゐる兎罠

  潮騒の路地の奥まで初日の出

  龍天の盥をめぐる鱗かな

  鳴きながら透きとほりけり揚雲雀

  釣銭の落ちてころがる海市かな

  群れなして黒きつむじや柳鮠

一句づつ解説していると大変な長さになってしまうので、句を引いただけにさせていただきますが、この9句は、それぞれにとても高度なテクニックが見られます。そして、その力が本物なので、読み手にそれを感じさせません。

いかにも「巧いだろ?」「どうだ?」と言わんばかりの左脳俳句は、目のつけどころや言い回しなど、ようするに「言葉のテクニック」を売り物にしているので、技術を丸見えにした下品な句ばかりで、まるでハダカで歩行者天国を歩いているようなものです。
しかし、本物の写生俳句は、そんな低次元な世界に眼目を置いてはいません。
俳句の王道である写生俳句は、どんなに高度なテクニックを持っていても、決してそれを売り物にしたりせず、気づかれないようにコッソリと使います。あくまでも売り物は作品自体の質であって、技術は見せびらかすものではないからです。そして、本当に素晴らしい句と言うものは、テクニックなどは感じさせないのです。

さらに言えば、作者自身も、自分の技術力の高さに気づかず、自然に作句しているのです。このような作句スタイルは、何十冊俳句誌を読んだところで身につくものではなく、長い年月、コツコツと写生を積み重ねて行く上で、知らず知らずのうちに体得して行くものなのです。

さて、連作の場合は、その句の配列がとても重要で、同じ50句であっても、並べ方を失敗してしまうと、すべてが台無しになってしまいます。
「色鳥」50句の配列は、弱い句が強い句をさらに盛り立て、強い句は弱い句をフォローし、句から句への流れも良く、パーフェクトと言えるでしょう。

宇多喜代子が選評で、「冬木立」と「日向ぼこ」の「影」の句が並んでいることについて、「~この辺は工夫がないなという感じがしないでもない。五十句は構成の力が要りますから。」と言っていますが、これは宇多喜代子の読みが浅いのです。

作者は、そんなことは十分に分かっていて、あえてこの並びにしているのです。これは、宇多喜代子の読み負けですね。
しかし、さすが感性の鋭利な宇多喜代子なので、ハッキリと作者の意図が分からずとも、何かあるのかも知れない、と感じたのでしょうか? 断定的な発言は避け、「~ないなという感じがしないでもない。」なんて、イマドキの女子高生みたいな、逃げ道を作った言い回しをしています(笑)
「冬木立」と「日向ぼこ」の2句の並びを説明するには、その前後の句も引く必要があります。それは何故かと言うと、連作の場合は、前の句の下五が、次の句の上五へとつながって行くからなのです。

  猟犬ハ腹ヲ汚スヲ旨トスル

  手のとどくところに影や冬木立

  日向ぼこしてゐる影のありにけり

  手袋を編みあげし指冷たくて

「猟犬」の句は、下五の「旨トスル」で切れていますので、次の句にはつながりません。そして次の句は、中七の「や」で切れ、下五の「冬木立」は次の句の上五「日向ぼこ」へとつながって行きます。そして「ありにけり」で大きく切れ、一拍おいて、次の「手袋」の句が始まるのです。

「冬木立」と「日向ぼこ」の2句の並びは、始めに書いた「陰から陽への視点の流れ」が分からなければ、理解することはできません。
作者は、公園のベンチにでも座っているのでしょう。足元まで伸びて来ている冬木立の影。顔を上げると、木々の向こうに冬の太陽がぼんやりと浮かんでいて、とても寒々しく感じます。
そして、また視線を戻すと、さっきは気づかなかった人の影が、木立の影の少し先に見えました。日向ぼっこでもしているのでしょうか。それはまるで、その影自体が日向ぼっこをしているようにも見え、その光景に、作者はほんの少し、暖かさを感じたのです。

作者の視点は、足元の影(ここで、何の影だろう?と、一度切れます。)→影の主(冬木立)→冬の太陽→日向ぼこの影→影の主→日向ぼこの影、と流れて行きます。そして、冬の太陽を見るまでは寒々としていた作者の心は、日向ぼこの影にその主の投影を感じた時点で、少し暖かく変化するのです。
ようするに作者は、同じシチュエーションで同じ「影」と言う言葉を使った2句をあえて並べ、「寒い影」から「暖かい影」への心象の変化を表現したのです。

仮にも選考委員たるもの、このくらいは読めなければお話になりません。

とは言え、選考委員のレベルの低下がハナハダしい昨今の俳句賞の中で、今回はそこそこ句読力のある俳人が揃ってくれたおかげで、正しい選がなされたと感じました。
最終選考に残った、他の4名の作品を読んでみれば、誰もがそう思うはずです。

「色鳥」50句を鑑賞して感じた龍吉俳句の魅力とは、立体的に対象を取材する写生眼と確固たる技術力に裏打ちされた「感性の豊かな自然体の俳句」と言うことになると思います。最後になりますが、龍吉さん、本当におめでとうございました!

受賞の言葉の中で、ネットの連衆のことにも触れてくださった心配り、とても嬉しかったです♪
※追記といたしまして、俳句サイト「影庵」へ投稿した、あたしの「色鳥」よりの10句選の原稿を付記しておきます。

   『色鳥より10選』  きっこ

◆ 色鳥の五六七八まだまだ来

この「まだまだ来」は、もちろん「まだまだ九」を踏まえています。小鳥が「五六七八」と来て、「まだまだ」と溜めて、そして九匹目が飛んで来るのです。まさしく、リーチ、一発、ツモ!の快感ですね。

◆ 水口を落ちてはるかに水の渦

素晴らしい句なのですが、ひとつだけ分からなかったのは、この句が秋の項に置かれていたことです。水口(みなくち)を秋の季語とするのならば、それは「落し水」の副題となります。落し水とは、水口を塞ぎ、畦を切って田の水を落し、稲刈りに備えるための準備なのです。
晩春の水口祭(苗代祭)が終わり、田打ち、畦塗りをしたら、水口を開けて田にひたひたに水を張り、田植えに備えます。そして、夏の田植えが終わって、初めて水口から勢い良く水を落とします。

ですから、あたしは田植えに順ずる夏の句としていただきました。

◆ 威銃蜘蛛の囲に引つ掛かりゆく

同じ句跨りでも、中七に促音の「つ」を文字通り引っ掛けたところが職人ワザですね。

◆ 枯草のつらぬいてゐる兎罠

兎罠の句と言うと、あたしは次の2句が大好きで、すぐに浮かびます。

しくしくと水音のあり兎罠  齋藤朝比古

朴の葉をいちまい噛みて兎罠  木内影志

どちらも素晴らしい句ですが、龍吉さんの句は、これらを完全に超えています。

50句の中で最も優れた作品であり、一番好きな句です。

◆ 鳴きながら透きとほりけり揚雲雀

雲雀の季語はたくさんありますが、そのほとんどは、草むらなどに姿が隠れているため、チチチチッと言う鳴き声を指します。その中で、ハッキリと姿が見えるのが、空中でホバリングしていたり、飛びながら鳴いている揚雲雀です。その揚雲雀さえも、太陽の光の中へと溶けて行ってしまい、鳴き声だけが残ったなんて、季語の本意を知り尽くした作者ならではの切り取り方です。俳句のひとつの完成形と言えるでしょう。

◆ 釣銭の落ちてころがる海市かな

海市(かいし/蜃気楼)が見えるのは富山湾が有名ですが、稀に、千葉などの太平洋側でも見えることがあります。海市の「市」は、もちろん都市の「市」ですが、描写と句形から、海辺の市場で鮮魚を買う作者の姿が見えて来ます。取り合わせの句なのに、描写に季語が完全に溶け込んでいて、滑らかな一物を成してします。感性と技術、どちらが欠けても詠めない句ですね。

◆ 群れなして黒きつむじや柳鮠

鮠(ハエ)は、正式にはウグイと呼びますが、関東ではハヤと言います。しかし、ヤナギバエと言うと、柳の葉ほどの稚魚のことで、ハヤだけでなく、オイカワ(ヤマベ)の稚魚のことも指します。
ヤナギバエは、ニゴイやライギョなどの天敵から身を守るために、流線型の群れになって泳ぎ、そのシルエットで、相手よりも大きな魚を演出します。その群れが淵などでUターンする時は、まさしく黒いつむじのように見えます。俯瞰で見下ろしている、作者の立ち位置のしっかりとした句です。

以上の7句が、特に素晴らしいと感じた作品で、あと3句選ぶとしたら、次の作品になります。

◆ 初潮や文箱の螺鈿にじいろに

◆ 潮騒の路地の奥まで初日の出

◆ 龍天の盥をめぐる鱗かな

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