第十話 俳句と川柳
俳句にも様々な形があるように、川柳にもジャンルがあります。
新聞や週刊誌などに載っている川柳は、サラリーマン川柳とか時事川柳などと呼ばれる、川柳のひとつのジャンルにしか過ぎません。
本当の川柳と言うものは、我々俳人には理解できないほどハイレベルな詩の世界です。
簡単に説明すれば、俳句は、自分の外側の世界を詠むことにより、自己の内面を表現するもの、そして川柳は、自分の内面を詠むことにより、外側の宇宙を模索するものです。もっと簡単に言えば、俳句は客観、川柳は主観の世界です。ですから、俳句を作る上で、主観的なものは良くない、と言われるのは、川柳のジャンルになってしまうからなのです。
あたしの尊敬する川柳作家、時実新子(ときざねしんこ)さんは、「川柳は、もう一人の自分が自分を見る、と言う自己客観の文芸である。」と言っています。
あたしは、俳句と川柳の違いを分かりやすく、客観と主観、と言いましたが、もっと正確に言うならば、俳句は「客観」、川柳は「自己客観」なのです。
アサヒグラフで、時実新子さんの連載を担当していた編集の古澤陽子さんは、連載の冒頭で、「嬉しさも悲しさも、怒りも嫉妬の苦しさも、心に生まれるすべての思いを十七音字に凝縮する。川柳は自由で広大な詩空間。」との言葉を掲げています。
本当の川柳と言うものを理解していただくために、時実新子さんの作品を10句挙げてみます。
『金魚は死んで私の未来から離れる』
『目の前を猫が歩いて正午なり』
『暁のマリアを同罪に堕とす』
『風の中捨つべきものを数えおり』
『水落下はげしい耳鳴りの中へ』
『月光へ泳がせた手に何もなし』
『夕ぐれの壺にきこえる笙の笛』
『おねむりよ何も思わず秋の底』
『春雷の腹を渡るにまかせたり』
『森に五百仏まします小春かな』
これらが、本当の川柳です。どうでしょうか?
季語のあるものなどは、そこらのヘタな俳句よりも俳句らしく思えてしまうほどです。これらの作品を良く読んでみると分かるように、対象の切り取り方は俳句的ですが、対象そのものは短歌的なのです。
ですから、本当の川柳を知らない人は、滑稽な俳句などを「川柳的」と表現したりしますが、正しくは「サラリーマン川柳的」「時事川柳的」と言うべきであり、さらにき詰めれば「滑稽」や「軽み」と言うものも、俳句のひとつのカテゴリーだと、芭蕉は言っています。ですから、軽い句や滑稽な句だからと言って、単純に「川柳のようだ」と言うのではなく、どんなにしっかりと作られている句であっても、主観に偏っているものを「川柳的」と表現すべきだと思います。