第十三話 未完の可能性
絵画や音楽などから、川柳や短歌などの短詩に至るまで、およそ全ての芸術は、その作品が出来上がった時点で、作品としては完成されています。そして、その完成された作品を第三者に見せたり聞かせたりします。
しかし、俳句だけは違います。どんなに素晴らしい俳句であっても、出来上がった時点では、まだ未完成なのです。人の目に触れて、初めて作品として完成されるのです。何故ならば、俳句とは「全てを言い切らない詩」だからなのです。
自分の言いたいこと、伝えたいことは直接言葉にはせず、季語や他の描写に託します。そして、起承転結の「結」、つまり「答」にあたる部分は読み手に導き出してもらいます。
ですから、どんな句であっても、誰かの目に触れ、その読み手が、その人なりの「答」を導き出して、初めて一句として完成するのです。
形は出来上がっていても、作品としては未完成だった一句が、作者の手を離れ、人の目に触れ、それぞれの読み手の感性と融合することによって、初めて完成された詩へと昇華して行くのです。
人間の感性は人それぞれですから、同じ作品であっても、読み手の数だけ答がある、と言うことになります。
何文字でも使っていいのなら、自分が感じたことや想ったことを相手に伝えるのは簡単です。しかし、たった17音で何かを伝えると言うのは、とても難しいことであり、ましてそれが報告や用事などではなく、自分の心の中の想いだったりすると、文字数に制限がなくとも、うまく伝えられなかったりします。
我々俳人が、過去の句を大量に読んだり、俳句以外の文芸や他の芸術などを勉強したりするのも、ひとつでも多くのテクニックを身につけたり、他のジャンルの表現方法を自身の句作に生かせないものかと、日夜考えているからなのです
語彙(ごい)が豊富であれば、それだけ表現が豊かになりますし、知識が豊富であれば、それだけ表現に幅が出ます。そして、ひとつでも多くのテクニックを身につければ、それだけ表現が緻密になり、微妙なニュアンスなども伝えられるようになります。
これらは、自分の作品を読み手の感性と融合させたり、読み手の深層的な部分に働きかけたりする上で、とても重要なこととなります。
好きでもない、よく知らない人から、突然に恋の告白をされたとします。そこらの道端で、急に「好きです」と言われても、あたしは「はぁ?」って思うだけです。
だけど、横浜の夜景を見ながら、心にジーンと響く言葉を囁かれたら、その人を好きになるかは別としても、少なくとも前者の場合よりは、何倍も気持ちが伝わります。もしかすると、あたしを想ってくれる気持ちは、前者のほうが強いかも知れませんし、後者は遊び半分なのかも知れません。
しかし、人に想いを伝えると言うことは、こう言うことなのです。
たった17音だけで何かを伝えようとする時、語彙の豊富な人のほうが、知識の豊富な人のほうが、そして、俳句のテクニックをひとつでも多く持っている人のほうが、より想いを相手に伝えることができます。
そして、知識や技術が向上すれば、自分の句作の幅が広がるだけではなく、人の作品を観賞する上でも、より深い部分まで感じることができるようになります。
俳句を始めたばかりの人は、人の作品を読んでも、17音の文字に書かれている表面的な意味を理解するだけで精一杯で、その奥にある作者の想いにまで到達できない場合が多いのです。
赤い椿白い椿と落ちにけり
これは、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)のあまりにも有名な名句であり、客観写生を志すあたしにとっては、目標としている句のひとつでもあります。
この句は、客観写生句の中では、現在において最高水準の作品であり、17音の奥に、何百文字、何千文字もの世界が広がっています。
作者の伝えたかったことが「赤い椿と白い椿が落ちました」と言うだけのことであれば、これは俳句でも詩でもなく、ただの報告になってしまいます。
しかし、作者の想いは別のものであり、その想いを落ちる椿に委ねたのです。ですから、主観的に詠ったら何百文字にもなってしまう想いをたった17音で表現することができたのです。
しかし、読み手は、この句をそれぞれの感性で受け止め、それぞれの心の中で完成させるので、必ずしも作者と同じ想いを共有できるのかと言ったら、そうではないのです。
でも、それが俳句と言う文芸なのです。
この句を読み、ある人は別れた恋人のことを想い、ある人は亡くなった母のことを想い、そしてまたある人は人生の儚なさを想うのか‥‥。
もしかすると、名句と呼ばれている作品の多くが、作者の想い以上の世界を読み手の心の中に作り上げているのかも知れません。
ですから、自分の想ったことや感じたことをその通り正確に読み手に伝えた人は、他の詩形なり小説なりを志すべきでしょう。
読み手ひとりひとりの深層的な部分にまで働きかけ、それぞれの潜在的に持つイメージまでを喚起させる力、これが、客観写生句の最大の魅力であり、主観に片寄った観念的な俳句や他の詩形などには、とうてい真似のできない世界なのです。
完成された芸術は、それ以上の世界を構築しませんが、俳句は全てを言い切らない未完の文芸なので、作者の手を離れてから、どこまでも広がって行く無限の可能性を秘めているのです。