第十四話 恋歌からエロティッ句へ
俳句の題材は様々で、花鳥風月などの自然から、人間の本質に迫るようなものまで、社会通念上のモラルに反しない限り、基本的には何を詠っても自由です。
「恋愛」もその題材のひとつで、昔から恋愛をテーマにした俳句もたくさんあります。しかし、俳句は17音と言う文字数のため、なかなか複雑な人間の恋愛を詠い切ることができません。
逆に短歌は、恋愛を詠うのに適している詩型であり、古くは和歌の時代から、雅やかな多くの恋愛が詠われて来ています。その姿も様々で、淡い恋心を詠ったものから、憎悪に満ちあふれた嫉妬の歌、リアルなセックスの描写から同性愛に至るまで、あらゆる恋愛の形が詠み尽くされています。
月刊「短歌」の平成11年4月号の「現代恋歌論」と言う特集の中で、歌人の岡井隆が「右岸の恋、左岸のエロス」と言う、興味深い文章を書いています。
その中で岡井は、(短歌の)恋歌を3つのタイプに分類しています。
1つ目は、近藤芳美や中条ふみ子などに代表される「私小説風の作品」、2つ目は、俵万智や林あまりなどに代表される「架空の物語に組み込まれた作品」、そして3つ目は、この2つの枠では括れない作品、としています。
この3つ目の例として、辰巳泰子の「仙川心中」を取り上げ、独自の観点から、現代短歌における恋歌を分析しています。
とりの内蔵(もつ)煮てゐてながき夕まぐれ淡き恋ゆゑ多く愉しむ 泰子
この歌に対して岡井は、「淡き恋といふと王朝の和歌などを例に引きたくなるが、辰巳の歌の世界は、ずっと俗の世界で、雅(みやび)の世界を否定してゐる」と批評しています。
これは、今だによそ行きの言葉で、平安時代の雲の上の恋愛みたいな歌を書いている歌人の多い中、極めて俳句的な対象の切り取り方をしている辰巳の歌に対する、最高の誉め言葉だと思います。
仙川にこの子投げたし殺したしされど誰にも殺させたくなし 泰子
幼い子を持つシングルマザーは、何よりも愛しい我が子が、時として自分の新しい恋愛の障害になる場合があります。
「この子さえいなければ‥‥」
愛する子供を殺して、自分も死のうと思ったことのある母親が、この世にどれほどいることでしょうか。
愛して愛して愛し過ぎてしまい、殺してしまいたいほどの我が子への愛。
竹下しずの女の
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)
を彷彿とさせる秀歌だと思います。
あたしは、短歌は専門外なので、間違っていたら勉強不足で申し訳ありませんが、一説には、短歌での恋歌には「雅の伝統」と言うものがあり、どんな恋愛を題材にするのも自由ですが、必ず雅やかに詠わなくてはいけないらしいのです。
ですから、辰巳の書くこれらの恋歌に対して、岡井の下した結論は「短歌といふ詩型の限界をこえて表現しようとしてゐる」と言うものでした。
別の専門誌「短歌研究」の同年4月号では、藤原龍一郎が「(辰巳の歌は)反則ぎりぎりの表現」とも発言しています。
さて、話しは変わり、岡井が2つ目の恋歌のパターンとして名前をあげた、林あまりですが、彼女の作品は、恋歌と言うジャンルの中でも特別な位置にあり、過激なセックスの描写が持ち味の作家です。
あたしの好きな歌人のひとりでもあるので、あたしの別のHP『れいなの楽屋』の日記でも、以前、彼女の作品を多数取り上げたことがあります。
カーテンの向こうはたぶん雨だけどひばりがさえずるようなフェラチオ あまり
あたたかく入った液体 わたしからいま流れ出る あなたが寝たあと あまり
これらの恋歌が、岡井の言うところの「架空の物語に組み込まれた作品」なのです。
恋愛感情と言うものは、生き物にとっては本能的なものです。しかし、人間の恋愛の場合は、とても観念的な部分が多いように思えます。
観念的な恋愛と言うのは、心ではなく頭でする恋愛のことであり、性描写などを歌に詠むことも、観念的な恋愛をバーチャルに楽しむひとつの手段なのです。
これは、全てを言い切ってしまえる短歌だからこそ可能な表現方法なのであり、この方法を俳句でやってしまうと、俗に『バレ句』と呼ばれる下ネタ系の低俗なものになってしまいます。そして、三流週刊誌などに載っている『お色気川柳』と変わらなくなってしまいます。
それでは、俳句における、バレ句(低俗)にならないような性描写とは、一体どのようなものなのでしょうか。あたしは、低俗にならないような作りでセックスを感じさせる句をバレ句に対して『エロティッ句』と呼んで区別していますので、あたしがエロティッ句に分類している作品をいくつかあげてみましょう。
花衣ぬぐや纏(まつは)る紐いろいろ 杉田久女
春の灯や女は持たぬのどぼとけ 日野草城
中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
雪はげし抱かれて息のつまりしこと 橋本多佳子
せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ 野澤節子
かたつむりつるめば肉の食ひ入るや 永田耕衣
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 桂信子
性器より湯島神社へ碧揚羽 摂津幸彦
春はあけぼの陰(ほと)の火傷のひりひりと 辻桃子
男入れ桜の山の微熱かな 大木あまり
器から器へのびる蝶の舌 柿本多映
まだまだあげたらキリがありませんが、先ほどの林あまりの短歌のように、直接的にセックスを描写している作品は一句もありません。男性や女性の器を詠んでいても、行為の描写にまでは至っていません。
このような形が、セックスを題材にした俳句の、現在での限界のように感じます。
そう考えると、あたしは初めに「俳句の題材は何を詠っても自由です」と言いましたが、恋愛やセックスと言う題材は、極めて短歌向きのテーマである、と言うことが分かります。
しかし、いくら俳句向きではないと言っても、辰巳泰子のように、俳句的な自己客観の手法まで取り入れている歌人のいる短歌の世界に比べ、俳句の世界のいかに遅れていることでしょうか。
これは、単に俳句と言う詩型が、恋愛やセックスを詠うのに適していない、と言うだけでなく、そう言った作品を忌み嫌う、俳壇の閉鎖的な体質によるものだと思います。
多くの若手俳人、とりわけ女性俳人は、日常的に恋句を詠む人も多いのですが、結果が分かっているので、所属結社の句会には提出すらしません。
事実、林あまりの歌のような過激な句など提出したら、即刻破門になってしまうような結社も多く、そう言った閉鎖的な場所では、俳句の可能性を模索するための実験的な試みなど、とうていできるはずがないのです。
あたしが参加している超結社(結社の枠を超えて集まる有志の句会)では、たまに恋愛やセックスを題材にして句会を開いたりしますが、俳句の新しい可能性を示唆するような、ハッとさせられる作品と出合うこともしばしばです。しかし、それらの作者は、決してその句を自分の結社には提出したりはできないのです。
結社以外の句会に参加していることがバレても、破門になってしまうようなところもあるほどですから、超結社の句会には、あたしのような無所属の俳人以外は、匿名で参加している俳人もいるのです。このような現状では、俳句が短歌に追いつくのは、まだまだ先のことでしょう。