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スレッドNo.27

第二十話 松の声

例えば、俳句で松を詠む時に、その松を見て「この松は何だか寒そうだな」とか「何だかボーッと突っ立ってるな」とか「この枝の形は何となく人間が悩んでいるように見えるな」と思い、「松が凍えている」「松がボーッと立っている」「松が悩んでいる」などと表現する人がいます。

松山千春なら頭が寒そうだし、松たか子ならボーッとしてそうだし、松田聖子なら悩みも多そうですが、植物の松が、寒がったり、ボーッとしたり、悩んだりするわけがありません。

こう言った表現方法を「見立て」と言い、これらの場合は「松」を「人」に見立てているので「擬人化」と呼びます。

客観写生においては、この「見立て」が、その中でもとりわけ「擬人化」が、あまり良くないこととされています。それには、2つの理由があります。

まず1つは、擬人化を含む見立てと言うものは、その作者の主観が全面に出た表現であると言うこと。

そしてもう1つは、見立ての手法と言うものは、少ない言葉で対象の状況などを伝えることができるため、短詩型の世界では古くから使われている、つまり類句が生まれやすい、と言うこと。

ですから、常に新しみを求める俳句の世界においては、「見立て」と言う手法そのものが、現代ではすでに使い古された表現方法なのです。

もちろん「見立て」の句を作ってもルール違反にはなりませんが、そのためには、今まで誰も使ったことがなく、それでいて多くの読み手に共感してもらえるような見立てを発見しなくてはなりません。

「星のささやき」「太陽の笑顔」「母なる海」などなど、例を上げたらキリがありませんが、現代では歌謡曲の歌詞にも使われないような、これらの賞味期限の切れた表現は‥‥
って、この「賞味期限の切れた」って言い回し自体が賞味期限が切れてますけど(笑)

とにかく、「見立て」だけでなく、同じように良く使われる「比喩」や「言い回し」なども、斬新でオリジナリティがあり、かつ多くの読み手に共感してもらえると言う、相反するものを備えていなければ、現代俳句においては通用しないのです。

あたしは、見立てを否定はしませんし、逆に、これだけ詠み尽くされてしまっているのに、それでも新しい見立てを発見する俳人がいたら、心から敬服します。でも、一度しかない人生、あんまり遠回りもしてられないので、その辺のことは俳句界の荒俣宏こと、マニアック岸本こと、岸本尚毅あたりに任せておいて、不器用なあたしは、徹底的に客観写生を追求して行きたいと思います(笑)

  梅の花ぽんぽんポップコーンかな

これは、あたしが中学生の時に作った句です。白梅の咲く様子をポップコーンに見立てた句で、当時は先生に誉められました。

でも、それから15年、色々な媒体で俳句を読んで来て、ここ数年は、毎月10誌以上の結社誌を一般会員の投句欄まですべて目を通していますが、梅の花をポップコーンに見立てた句は、両手の指で数えられないほど目にして来ました。

その上、ポップコーンと言う単語が6音もあるため、必然的に他に使える言葉が少なくなり、見立て以外の部分も類似して来るのです。全く別の結社誌で、一字一句同じものも見つけました。

もちろん、あたしよりも先にこの見立てをした人もいるでしょうし、あたしが現在目を通している結社誌は、全国に800以上もある結社の僅か2%なのです。
そう考えると、梅の花をポップコーンに見立てた句は、何十句、何百句と詠まれているのかも知れません。そして、それぞれの作者が、「自分だけが見つけた新しい表現」だと思い込んでいるのです。

ですから、見立ての句を作る場合は、この「梅とポップコーン」をひとつの目安として考え、これよりも新しみのない見立てならば、すでに何百、何千と詠まれている、と思って下さい。

あたしが、見立てと言う手法に見切りをつけたのは、この他にも、数え切れないほどの類句を見て来たからです。

芭蕉は「松のことは松に習へ」と言い、開高建は「風に訊け」と言い、あたしは「猫に聞いてみれば?」(笑)と言いますが、これが、客観写生の基本なのです。松の声、風の声、猫の声を聞くこと、これがすべての第一歩であり、そして客観写生へと繋がって行くのです。

あたしは、良く周りの人から、猫についてのことを質問されます。猫の習性などを知りたい人が、猫に詳しい人に質問するのは当り前のことです。でも、あたしの言うことは、あたしの主観が入った猫の説明なのです。あたしの百の言葉を聞くよりも、自分の目でノラネコを1時間ほど観察していたほうが、何倍ものことを吸収できるでしょう。それが「猫に聞いてみれば?」と言うことなのです。

初めは、松の外見や風の音、猫の動きなど、五感に働きかける部分しか観察することができませんが、そう言った写生を積み重ねて行くうちに、松や風や猫の声が聞こえて来るようになります。

もちろん、それらは耳ではなく、心に聞こえて来るのです。

松を見て「寒そう」「ボーッとしてる」「悩んでいる」と感じる人達は、自分の主観を表現することに忙しく、まったく松の声が聞こえていないのです。
せっかく自分以外の対象を17音に切り取るのですから、見立てや比喩などと言う安易な表現方法に逃げたりせず、心の耳を澄ませて相手の声を聞き、そこから言葉を紡(つむ)いで行くべきだと、あたしは考えています。

編集・削除(編集済: 2022年08月24日 04:21)

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