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スレッドNo.28

第二十一話 伝統俳句って何?

なんだか最近の俳人の中には「伝統俳句」なんて言う、実在しない架空の言葉にだまされて、俳句の本質からどんどん外れて行く人達がいます。

どこの誰から洗脳されてるのかは知らないけど(ホントは知ってるけど、笑)、そんな実在しない偶像なんかに手を合わせて、一体ナニがしたいんでしょう。

まだ今は、年会費を取られたり、くだらない句集を買わされたりしてるぐらいだからいいけど、主宰が顔も出さないような句会に会費を払って出席するようなオメデタイ信者達は、そのうち変なツボだとか絵だとか買わされちゃうんじゃないだろうかって心配になって来ます(笑)

あたしは何度も言ってるけど、俳句って言うのは「伝統」を否定するところから生まれた文芸なのに、その俳句を「伝統俳句」と呼ぶなんて、そんな矛盾があるのでしょうか。
こんなデタラメにだまされてる人達は、ハッキリ言って、ただの勉強不足なだけです。

俳句と違い、本当に伝統のある短歌は、決して「伝統短歌」などとは言わないし、他のものも全て同じです。「伝統水墨画」「伝統茶道」「伝統花道」なんて聞いたこともありません。
歴史の無い俳句に「伝統」なんて冠をかぶせたがるのは「我こそが俳句のルーツです!」ってことをアピールしたがってる一部の結社の人だけです。

もともと、日本の歌と言えば和歌であり、古代には様々な形式のものがありました。その中のひとつ「短連歌(たんれんが)」と言う、575と77を二人でかけ合うスタイルがあり、鎌倉時代から平安時代にかけて、その短連歌をずっと続けて行く「鎖連歌」が生まれました。そして、それが「五十韻」「百韻」と言う「長連歌」へと発展したのです。
この長連歌は、それまでの和歌のように貴族だけでなく、お坊さんや武士から庶民の間にまで大流行しましたが、まだ和歌の文化の影響が強かったため、外来語や俗語などは使えませんでした。

そして、江戸時代になり、庶民の間では、格式が高くてつまらない連歌に対抗して「俳諧(はいかい)」が生まれます。形式は同じでも、あれもダメこれもダメと言う伝統的な連歌に比べ、そんな伝統なんかクソ食らえ!ってことで始まった俳諧は、外来語や俗語もOKだし、何よりも日常の通俗的な内容を自由に詠えるため、あっと言う間に庶民の文芸として定着しました。

つまり、俳句のルーツである俳諧自体が、それまでの伝統を否定するところから発生しているのです。

そして、高い精神性に裏づけされ、多くの人達の共感を得る作品を次々と生み出す「芭蕉」と言うヒーローが誕生したのです。
当時の人気俳諧師と言うのは、今で言うジャニーズのアイドルみたいなもんで、若い女の子からはモテモテだし、男の子からは憧れられるし、変装しなければ町も歩けないほどです。

その中でもトップアイドルの芭蕉には、常にオッカケがつきまとい、蕪村や一茶も、もともとは芭蕉のオッカケだったのです。

ここで念を押しておきますが、芭蕉、蕪村、一茶などの名前が出て来ましたが、この時点でも、まだ俳句は生まれていません。
つまり、今では芭蕉と言えば「俳人」の代表のように思われていますが、もともとは「俳諧」と言う連歌のスーパースターであり、名刺の肩書きは俳人でなく「俳諧師」なのです。

さて、時代は明治になり、町のあちこちで文明開花の音がポンポンとしはじめ、都会と違って何のレクリエーションも無かった当時の四国は松山で、野球大好きノボ兄ちゃん(子規)が叫びました。
『連俳(連歌俳諧)は文学にあらず!発句のみ文学だぁ~!』

ノボ兄ちゃんの声は、四国中に響き渡り、ある人は讃岐うどんを鼻から出し、またある人はサワチ料理をひっくり返しました(笑)
ここから「俳句」の歴史(って言うほどのもんでもないけど)が始まったのです。

現在の日本の定型詩には、俳句や短歌の他に、連句、川柳などもありますが、連句は江戸時代の俳諧が現代に伝わっているもの、川柳は俳諧の77の前句に付けた575の付け句が独立したものであり、どちらも俳句よりは歴史があるのです。

話は戻り、たった百年ほど前に、子規が俳句の定義を決めたことにすがってる現在の子規の末裔(まつえい)達が「自分の結社こそ俳句の総本山だ」ってアピールするための都合のいい肩書き、それが「伝統」って言葉なんです。
欧米人からは、日本人ほど肩書きに弱い民族はいないと思われていて、肩書きのために大学に入り、肩書きのために就職し、ダレカレかまわず名刺を配りまくるイメージがあるようです。

そんな肩書き大好きな日本人にピッタリの「日本伝統俳句協会の会長が主宰をつとめる伝統俳句結社」(笑)

この「伝統」って言葉のマジックにだまされ、どれほど多くの俳人達が俳句の本質から遠ざかって行ったことでしょう。

「伝統」を否定することによって生まれた俳句は、その後も「伝統」と戦いながら今日に至っています。100年前とまったく変わらないものを後世へと伝えて行く「伝統」と言うものに対して、芭蕉の「不易流行」と言う概念を子規の「客観写生」と言う手法で実践して行く俳句は、常に流れ続ける文芸として、正反対に位置するものなのです。
つまり、例え俳句に五百年、千年の歴史があったとしても、常に新しいものを取り入れ、常に「今」を詠む、と言う俳句の本質を考えれば、決して「伝統」などと言う保守的なものは生まれる文芸ではない、と言うことが分かります。

あたしの大好きな連句の先生で、矢崎藍さんと言う人がいます。肩書き大好きな人達のために一応書いておくと、連句協会の理事であり、ころも連句会の代表であり、大学で日本文学の教授もしていて、たくさんの本を書いている、現在の連句界を代表する一人です。
その矢崎さんが、連句に関する自書の中で、「俳諧の歴史はいつも伝統との闘いなのだ!」とハッキリと言っています。

あたしは、一人でも多くの「伝統俳句教」の信者達が一日も早く目を覚まし、たった一度の人生を棒に振ることなく、本当の俳句の道へと進んでくれることを願ってやみません。
‥‥マジで。

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