第二十三話 つきすぎと離れすぎ
描写と季語を取り合わせた二物(にぶつ)の句の場合、その句が成功するかどうかは、描写と季語の響き合いで決まります。
描写と季語は、近すぎず遠すぎず、ほどよい距離を持ち、その二つが響き合うことにより読み手に立体的なイメージをもたらすものを良しとしています。
いちがいには言えませんが、基本的には、小さなものを描写したら大きな季語、生物を描写したら生物以外の季語、観念的な描写をしたら現実的な季語、など、描写と季語は対照的なものを取り合わせます。
例えば、部屋の中の描写に対して、部屋の中にある季語を斡旋すると、一句がすべて部屋の中のこととなり、広がりがなくなってしまいます。だからと言って、まるで別の場所にある季語、例えば、描写している部屋は東京の真ん中にあるのに、季語として山の上のほうに咲く花を取り合わせたりすると、一句がバラバラになってしまいます。
ですから、部屋の中の描写に対しては、窓から見える範囲にある植物や鳥などの季語を取り合わせるのが、一般的な斡旋になります。
観念的な句に関しては、例をあげて説明してみましょう。
例えば、
すこしづつ心ほどけて秋うらら
このように、実体のない観念的な描写に、同じく実体のない季語を取り合わせてしまうと、現実的な情報が皆無で、読み手には何ひとつ伝わって来ません。このような、読み手を拒絶した独りよがりの句を「ジコマンゾ句」と言い、観念的な句にこそ一番求められるリアリティが欠落しているので、誰の共感も得られません。
しかし、季語を「菜種梅雨(なたねづゆ)」に替えてみたらどうでしょう。
すこしづつ心ほどけて菜種梅雨
描写と季語に響き合いが生まれ、季語の本意によって、この描写が表している作者の悲しみは、軽い失恋程度のものであり、それほど深刻ではないと言うイメージが伝わって来ます。
また、その描写が季語を助け、晩春の菜の花のほどけて行く様を感じさせるでしょう。
それでは、季語を「枝垂梅(しだれうめ)」に替えてみるとどうでしょうか。
すこしづつ心ほどけて枝垂梅
今度は作者の悲しみが少し深くなり、また違ったイメージを作り出します。
季語と言うものは、ただ単に季節を表すだけでなく、その本意を持って描写と響き合い、作者の伝えきれない想いを表現する力を備えているのです。
このような描写と季語の取り合わせにおいて、その二つが近すぎてイメージの広がりの無いものを「つきすぎ」、逆に、あまりにも遠すぎてイメージが結びつかないものを「離れすぎ」と言います。
この「つきすぎ」「離れすぎ」と言うのものは、取り合わせの句だけでなく、一物(いちぶつ)の写生句などでも、その表現の上で発生します。
「つきすぎ」と言うのは、季重ねや切れの重複に対する感覚と同じように、正確なモノサシがあるわけではなく、極端な例を除けば、個人個人の感性によるところも多いので、Aの結社では誉められた句が、Bの結社では「つきすぎです」と言われることもあるのです。
また、斡旋する季語によっても、多少つきすぎにしたほうがいい句もあれば、少し離したほうがいい句もあり、とても微妙なサジ加減が要求されて来ます。
例えば、同じ植物の季語であっても、その「つき具合」が皆同じと言うわけではありません。「菜の花」のように自己主張の淡いものは、多少「つい」た描写でも構いませんが、「彼岸花」のように個性や自己主張の強いものに対しては、少し「離し」気味の描写のほうが響き合います。
植物だけでなく、「季語の本意」を持つすべての季語は、それぞれに個性や自己主張があり、その度合いによって、描写との「つき具合」が違います。
先ほど「個性や自己主張が強い」と言った「彼岸花」を主観と客観の両面から写生してみると、この「つく」と言うことの意味が良く分かります。
主観写生の手法であれば、作者はその彼岸花を見て、色々と自分の想いを巡らせます。そして、彼岸花から自分が受けたイメージを言葉にして行きます。
「彼岸」「生と死」「涅槃(ねはん)」などの言葉が次々と浮かんで来て、その想いを彼岸花の形に投影し、こんな句を作ったとします。
ひともとの空(くう)を掴むや曼珠沙華
※曼珠沙華(まんじゅしゃげ)は彼岸花の別名です。
一方、客観写生では、彼岸花と、その彼岸花を見ている自分とをもう一人の自分が、少し離れたところから写生します。
ですから、彼岸花を直接見ている自分の想いや観念は「他人事」となり、句の上には表れて来ません。観念や先入観を介入させずに写生するわけですから、こんな句が生まれます。
シェパードが鼻近づける彼岸花
俳句は個人個人の好みですから、前者の句のほうがいいと言う人も100万人に1人くらいはいるかも知れませんが(笑)、「つく」かどうか、と言う観点から見れば、前者はつきすぎ、後者はほどよく響き合っています。
前者の句がなぜ「つきすぎ」かと言うと、もともと彼岸花は、死人花(しびとばな)、幽霊花などとも呼ばれ、生や死やそれらに準ずるような本意が含まれているのです。ですから「空を掴みし」と言う、生きることに執着しているような見立てが「つきすぎ」となるのです。
ちなみにこの句は、あたしが俳句を始めて2年目くらいに作った、今見ると顔から火を吹きそうなくらい恥ずかしい「サイア句」(笑)で、後者の句は、今、例にするために即興で作ったものです。
この比較を見てもらえれば、主観や観念から発生した描写は「つきすぎ」に陥りやすいと言うことが分かると思いますし、言い替えれば、作者の言いたい想いは、すでに季語が語ってくれている、それをあえて描写で繰り返す必要はない、と言うことも分かるでしょう。あたしがいつも「ギリギリまで主観をそぎ落とせ」と言っているのは、こう言うことなのです。
それでは、季語の本意を描写で繰り返す「つきすぎ」と言うものは、すべていけないのかと言うと、そうではありません。
例えば、時雨忌(しぐれき、芭蕉の命日)や糸瓜忌(へちまき、子規の命日)などの忌日(きじつ)の季語があります。
これらの忌日の季語を使う場合は、多少つきすぎになるように作るのです。
「ねこじゃらし」と言う季語に対して「猫」の描写を取り合わせたら、これは「悪いつきすぎ」になってしまいます。しかし、夏目漱石の忌日「漱石忌」に対して「猫」の描写を取り合わせるのは、本来は「我輩は猫である」を連想するので「つきすぎ」になってしまいますが、忌日の句に関しては「故人を偲ぶ」と言う観点から良しとされています。また、忌日と言う季語自体が特殊な位置づけにあり「挨拶(あいさつ)」としての性格が強いため、離れた描写では成り立たないのです。
このような特殊な場合を除いても、つきすぎはすべてダメ、と言うわけではありません。字余りのように、一度は完璧な形にまで推敲したけれど、それ以上の世界を表現するために、あえて「つきすぎにした」と言うのであれば、それもまた俳句のひとつの表現方法なのです。
もちろん、いくら計算して意識的につきすぎにしたと言っても、読み手にその意図が正確に伝わり、計算通りの効果を上げなければ、成功したとは言えません。
ですから、意識的なつきすぎと言うものは、余韻の増幅やたどたどしさを演出するための意識的な字余りや、緻密に計算された切れの重複などと同じように、とてもハイレベルな手法であり、初心者が考えもなく実践して簡単に成功するようなものではありません。
やはり基本的には、初心者もベテランも関係なく、常に「つきすぎ」「離れすぎ」に注意して、描写と季語をほどよく響き合わせるように作句するのがベストでしょう。
ちなみにあたしは、目が「離れすぎ」なので、毎朝一生懸命にメークして、ほどよい距離になるように努力しています(笑)
‥‥っていいのか?こんな終わり方で!(爆)