第二十四話 運動会と吟行会
もともと日本人は写真が大好きで、海外に行くと、首からカメラを提げてるのが日本人の目印みたいだったらしいけど、ここ何年かでデジタルカメラの売上げが急激に伸び、ついに普通のカメラの売上げを抜いてしまったそうだ。
それは、4~5年前はデカくて重くて高かったデジタルカメラが、軽量コンパクトで高性能、その上、安価になったこと、そしてPCの普及に伴ってのことが原因だろう。
最近は、子供の運動会で各競技が終了しても、父兄達からは拍手が起こらないそうだ。何故かって言うと、みんなビデオカメラやデジタルカメラで自分の子供だけを撮影してて、手が塞がっているからなんだって!(笑)
だから、お父さんやお母さん達は、せっかくわが子の運動会を見に行ってるのに、ファインダーを通した絵しか見てないことになる。
もちろん、運動会だけじゃない。
七五三、入園式、卒園式、おゆうぎ会、学芸会、家族旅行、ありとあらゆるイベントをビデオや写真に撮りまくり、家に帰ってから編集する。
それをあとから見せられる、周りの人間の身にもなって欲しい。耐え難い苦痛なんだから‥‥。
人ん家の子供の運動会なんて、他人にとっては退屈なだけのビデオなのに、途中で早送りするワケにも行かず、イネムリするワケにも行かず、たっぷり2時間も見せられちゃう。やっと拷問のような2時間が終わり、お世辞のひとつでも言おうもんなら、喜んでると勘違いされて、去年のぶんまで見せられちゃう始末‥‥(泣)
そう言う人達って、一体何なんだろう?
運動会を楽しむことよりも、記録を残すことを重要だと思ってるなんて、あたしには理解できない。
せっかく現場まで足を運んでるのに、ファインダーを通しての映像ばかり見てるんじゃ、家でテレビ見てるのと変わらないじゃん。予備のテープやバッテリーまで、バッグにパンパンに持って来て、ホントご苦労様って感じ(笑)
旅行やイベントに行っても、ビデオばっかり回してて、何のためにわざわざここまで来たんだろうって人、ケッコーいるよね。それなら、家のお茶の間で、のんびりと旅行番組でも見てればいいのに‥‥。
子供の運動会や家族旅行だけに限らず、自分が参加することって、自分の目で見て、自分の肌で感じなかったら意味が無いのに。
こう言う人達が、驚いたことに、俳句の世界にもいるのだ。
俳句には、吟行(ぎんこう)と言う楽しみ方がある。
何人かでどこかへ出かけ、同じものを見たり、聞いたり、食べたりと楽しんで、そして、その日に作った俳句を出し合って句会をする、と言うものだ。
4~5人で近所の公園やお寺に出かけるものから、2~30人で海外に行ったりするものまで、その規模は様々だけど、その楽しさと言ったら、あたしの大好きなMAXのライブと同じくらいだ。
持ち寄りの俳句を出し合う通常の句会と違って、同じ体験をした者同士での句会なので、似たような句も出れば、同じものを見ていたのに全く違う切り取り方をしている句もあり、ひとりひとりの個性が出る。
俳句では『月並み(つきなみ)』と言って、人と同じ発想を嫌うので、何とかみんな、人と違った句を作ろうとアレコレ考える。
いつものメンバーでの吟行だったりすると、それぞれの得意ワザやクセも分かっているので、『あの人は、この景色を見てこんな句を作りそうだから、あたしはこうしよう』とか、また、その裏をかかれちゃったりとか、そう言ったカケヒキも楽しい。
四季折々の自然に囲まれて、仲間と大好きな俳句で遊ぶ。こんなに楽しいことはないのに、せっかくの吟行会で、運動会でビデオを撮りまくっているお父さん達と同じ感覚の人がいたりする。通称『歳時記族』って言うヤツラだ。
自分のまわりに自然がいっぱいあるのに、歩きながらも、バスに乗っても、休憩中も、食事中も、ずっと歳時記から目を離さない。
あたし達はみんな、吟行には歳時記を持って行くけど、それは、目の前にある植物が、今の時期のものか確認したり、最終的に俳句を推敲する時に、念のためにチェキしたりするためだ。
だけど、歳時記族の俳人は、まず歳時記を見て季語を見つけ、それから景色を見て俳句を作るのだ。
だから、みんなで同じ道を歩いて来たのに、『え?こんなお花、どこに咲いてたの?』って季語の俳句を出したりする。
ある吟行会で、こんなことがあった。
何年か前の春、あたしの仲の良い俳人からの誘いで、都内の大きな自然公園での吟行会に参加した時のことだ。
メンバーは10人くらいで、それぞれ所属結社は違うけど、みんな俳句歴は10年以上、新鋭気鋭の俳人ばかりだった。あたしは、半分くらいの人達とは知り合いだったので、久しぶりに会うことをとても楽しみにして参加した。ゲストに、テレビの俳句番組などにも出ている有名な先生を迎え、吟行会はスタートした。
スタートしたって言っても、集合場所と時間だけを決めて、あとはバラバラに公園内を歩いて、各自、俳句を作るだけだ。
あたしは、この吟行に誘ってくれた仲良しのオジサンと、久しぶりに会ったこれまた仲良しの看護婦さんと三人で行動することにした。
集合時間までは、約3時間。それまでに10句作らなきゃならない。
でも、久しぶりに会ったんだし、まずはコレでしょ?って、あたしがお酒を飲むジェスチャーをすると、オジサン俳人は(って言っても、すごく偉い人なんだけど、笑)、『きっこちゃんのために、ちゃんと持って来たよ』って言って、あたしの大好きな日本酒「銀嶺立山」の五合びんをバッグから出して見せてくれた(笑)
芝生に新聞紙を敷いて三人で座り、ナース俳人の手作りのタケノコの煮物やだし巻き玉子をおつまみにして、まずはあたしの買って来たビールで乾杯。それから紙コップで立山をクイクイと飲んで、俳句なんかそっちのけで、色んな話題で盛り上がった。
いい気持ちになって芝生に寝転がると、遠くで遊ぶ子供達の声や鳥のさえずりが聞こえ、三分咲きの桜が、春風にさわさわと音をたてる。
あたしは、ふっと浮かんだ句を句帳に書きとめた。他の二人も、俳句を作り始めていた。
残り時間もあと1時間となり、あたし達は、公園内を見てまわることにした。早春の自然公園をほろ酔い気分で歩いていると、今日のメンバーのひとりが石のベンチに座って、歳時記を無心にめくっていた。あたし達は、その人の目の前を通ったんだけど、その人は歳時記に夢中で、あたし達に気づかないどころか、まわりの景色も目に入らない様子だった。
色んなものを見て、触れて、感じて、それぞれが10句づつ作って戻って来ると、1時間も経っているのに、その人は、まだ同じ場所でミケンにシワを寄せて歳時記とにらめっこしていた。
そして、全員が集合して、句会が始まった。
お天気も良く、とても立派なベンチとテーブルがあったので、その日の句会は外で行うことになった。2つのテーブルをくっつけて全員がぐるっと座れるようにして、短冊、正記用紙、選句用紙が配られる。この短冊に、無記名で俳句を書き、それぞれが10句づつ提出し、それを裏向きにしてシャッフルする。そして、誰の作品か分からないようにして、みんなで選句して行くのだ。
メンバーの相互選が終わったあと、最後にゲストの先生の選が発表される。句会では、もっとも緊張する瞬間だ。
俳句の選は、一番良いものが『天』、次が『地』、そして『人』と分けられる。オリンピックの金銀銅みたいなもんだけど、この時は実力のある俳人ばかりだったので、先生の選も厳しかった。10人が10句づつ、全部で100句提出されている中、天は3句、地は5句、人は10句、それ以外の82句は選外だった。
あたしは、チョーラッキーなことに、天を1句、地を2句、人を2句もいただいた。それどころか、あとの天の2句が、オジサン俳人とナース俳人だったのだ。
みんなが一生懸命に俳句を作ってる時に、お酒を飲んで遊んでた三人が、天を総取りしちゃうとは!(笑)
最後に、先生が全ての句に対して、順番に批評をして行く。この句は、ここを直したほうが良いとか、この句は過去に類想句があるとか、そんな感じだ。
そして、あの歳時記とにらめっこしてた俳人の句について、先生が言った。
『この句は、季語が良くないですね。他の季語に変えてみて下さい』
その瞬間、その俳人は、バッと歳時記を手にすると、鬼のような形相で次々とページをめくり始めたのだ。
何をし始めたのかと、全員が彼に注目すると、『先生!この季語はどうでしょうか?それとも、この季語は?』と、歳時記の季語を順番に読み上げ始めたのだ。
先生は、その様子をさえぎるように、静かな口調でこう言った。
『●●さん、まず歳時記を閉じなさい。そして、まわりを見回してごらんなさい。まわり中に自然が満ち溢れているのに、あなたは何故、それを見ようとしないのですか?感じようとしないのですか?あなたは今、限りないほどの季語達に囲まれているんですよ』
人間は、時に、物事の本質に近づこうとして、実際には遠ざかって行ってしまうことがある。
一生懸命ビデオに撮った運動会は、そのビデオテープが無くなってしまえば、10年後には何も思い出せない。
でも、一生懸命に声を枯らして応援した運動会は、10年経っても20年経っても、心の中に残っているだろう。
三脚の立ち並ぶ、芸能人の記者会見場みたいな父兄席で、自分の子供だけをズームで撮り続け、自分の子供が参加しない競技が始まると、この時とばかりにテープやバッテリーを入れ替えるお父さん達。
花が咲き、鳥が歌い、満ち溢れた自然の中にいても、歳時記から目が離せない俳人‥‥。
俳句は、人より得点の高い俳句を作ることが目的じゃない。季節を肌で感じ、それを自分の言葉で17文字に切り取り、四季のある国に生まれた歓びとともに、自然に対してのあいさつとする。
だけど、もっと上手にあいさつがしたい、もっと自分の想いをうまく表現したい、と言う気持ちから、座を設け、それぞれが競い合い、磨き合い、勉強し合うのだ。
それなのに、いつの間にか高得点を取ることが目的になってしまっている。
本末転倒とは、まさしくこれらのことだろう。
ちなみに、読めないような難しい言葉が並ぶ立派な俳句がほとんど選外になった吟行会で、天をいただいたあたしの句は、こんなのだった(笑)
ほろ酔ひの桜三分となりにけり きっこ
※今日の俳話は、書き下ろしではなく、別のサイトであたしがずっと綴っている「れいなの日記」の中から、去年の11月頃に書いたものを転載しました。
そちらのサイトは俳句のサイトではないので、日記の内容も様々なジャンルに渡っています。また、最近は忙しいため、今年の1月から、しばらく更新をお休みしています。
でも、過去ログの中には俳句や短歌に関するものもありますので、今回の俳話を読んで興味を持った方は、「きっこのお薦めサイト」の中の「れいなの楽屋」へアクセスしてみて下さい。
*図書館註:この「れいなの楽屋」も魔法のiランドやteacupの終了で行方不明になりました。ログしている人があればお知らせください。
なお、多くの国語辞書では「付かず離れず」表記ですが「不即不離(ふそくふり)」という四字熟語から来ているので「即かず離れず」と併記する辞書(旺文社)もあります。「つきすぎ」は「相即不離(そうそくふり)」という四字熟語が類語と言えます。どちらも仏教用語で『円覚経』に由来すると謂われています。「迷い」と「悟り」は相反する関係に見えるが、「迷い」があるから「悟り」があるという「不即不離」の関係と、「相即不離」は「相(あい)即(つ)きて離れず」という二つの物事が密接な関係にあり切り離せないという意味になります。「離れ過ぎ」という対語(反対語)は見当たりませんでした。
なお、『円覚経』は諸種あまたある仏教思想と実践行の禅とを統一する「教禅一致」の聖典とされ、「教禅一致」に批判的だった道元はトマソン扱いにしています(笑)。ただ、京都大学蔵の「むろまちがたり」十巻目の「たま藻のまへ」の原文をあたると、九尾の狐が玉藻の前に化身して鳥羽院に仏教問答で答える場面に、「迷い」があるから「悟り」があるという「不即不離」の応答をして鳥羽院を感心させたという場面があるので、室町時代には日本にも浸透していたと思われます。