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スレッドNo.32

第二十五話 神々の宿る言葉

平仮名(ひらがな)には、昔の「いろはにほへと」と、現在使われている「あいうえお」とがあり、「言ふ」と「言う」のように、同じ言葉でも表記の仕方が違って来ます。一般的に、昔のものを「旧仮名」、それに対して現在のものを「新仮名」と呼んで区別しています。

俳句を書く上ではどちらでも構いませんが、必ずどちらかに統一するべきで、同じ作者が句によって新旧を使い分けたり、一句の中に両方が混在しているのは絶対にいけません。

物理的に考えれば、新仮名は46音、旧仮名は「ゐ」と「ゑ」が増えて48音、たった2音の違いです。しかし「言葉」と言うものの根源に遡って調べてみると、新仮名と旧仮名の違いは、この音数だけではないのです。
第二次大戦の敗戦後、アメリカから怒涛のごとく押し寄せた「合理主義」の波によって、その正反対に位置する日本古来の美学「わび、さび、雅、風流、風情」などは、ことごとく「悪しき習慣」「時代遅れの伝統」と見なされてしまいました。その中で生まれた「あいうえお」と言う新仮名は、まさしくアメリカ的な合理主義の象徴でしょう。合理的な言葉の配列は、それまでの「わび、さび」を消し去り、アルファベットと同じように、言葉をただの記号にしてしまいました。

もともと日本の48音の仮名は「一音一字の言の葉に四十八(よとや)の神々が宿っている」と言われていて、48音で森羅万象の真理をすべて表現していたのです。ですから、仮に「ゐ」と「ゑ」を残していたとしても、その配列を変えただけで「言の葉」としての意味がなくなってしまうのです。

「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」

これが「伊呂波(いろは)歌」ですが、分かりやすいように漢字と段落を入れて書いてみましょう。

「色は匂へと散りぬるを 我か世誰そ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせすん」

この48音の中には、無駄な言の葉はひとつもなく、逆に1音でも欠けたら成り立たなくなってしまいます。

それなのにアメリカの「合理主義」は、「同じ音のものはひとつで十分だ」と言うアホな見解から「ゐ」と「ゑ」を抹殺したのです。それなら、なぜ「を」を残したのかは疑問ですが、どちらにせよ、何にでもケチャップをぶっかけて食べるような民族の考えそうなことです。
さて、この「伊呂波歌」からさらに遡ると、「ひふみ」と言うものに辿り着きます。
「ひふみ」とは、ものを数える時に「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ‥‥」って数える呼び方の元祖にあたるものです。

「ひふみよ いむなやことも ちろらね しきる ゆゐつわぬそお たはくめか うおえに さりへて のます あせゑほれけ ん」

これが「ひふみ」の48音ですが、「ひ」から「と」までの最初の10音が、ひとつ、ふたつ、みっつ、と数える時の頭文字になっていることが分かります。つまり、ものや時間などを数える時の数字は、この「ひふみ」から発生しているのです。

そして、この48音こそが、先ほど言った「四十八(よとや)の神々」の宿る言の葉なのです。

「ひ」は火、そして太陽を表し、「ふ」は風を意味します。「み」は水、つまり海を表現しています。
このように、一音一字のすべてに神が宿っていて、その48音が同時に鳴り響き、天地が創造されたと伝えられているのです。

ちょっと余談になりますが、新年の季語で「ひめ始」と言うものがあります。この「ひめ」は、お姫様の「姫」や秘め事の「秘め」と解釈されていて、近年では「新年になって初めて男女が愛しあうこと」と言う、ちょっとエッチな季語とされています。

しかし、語源を探ってみると、もともとは「ひみ始」と呼ばれていて、「ひ」は火のこと、「み」は水のことであり、新年になって初めて火や水を使い「太陽の神と海の神に感謝をすること」と言う説もあるのです。

このように、古来からの日本の言葉には、季語それぞれに本意があるように、言葉の一文字一文字にも意味があるのです‥‥と言うか、かつてはあったのです。
さて、話は戻り、現在の俳句における新仮名と旧仮名の表記の違いについて、少しだけ触れてみたいと思います。

俳句は、その内容だけでなく、耳で聞いた時の音の感触や目で見た時の文字からのイメージなども、一句を構成する上でとても重要な役割を果たしています。ですから、文字の表記が漢字か平仮名かによって、その句のイメージは大きく変わってしまいますし、同じ平仮名でも、新仮名と旧仮名では、また違って来ます。

  をりとりてはらりとおもきすすきかな

これは飯田蛇笏の有名な句ですが、試しにこの句を漢字で書いてみましょう。

  折り取りてはらりと重き芒かな

これでは「重さを感じない重さ」と言う微妙な感覚が伝わって来ないと思います。
実際この句は、初めは「折りとりてはらりとおもき芒かな」と表記されていました。
しかし蛇笏は、より自分のイメージに近づけるために「をりとりてはらりとおもき芒かな」と推敲し、そして最終的に、すべて平仮名で表記することにしたのです。

このように表記と言うものは、一句を形成する上でとても重要なのです。

春の季語で「薄氷(うすらい)」と言うものがあります。読んで字のごとく、春まだ寒い時期に、池やバケツなどに薄く張った氷のことを指します。
これを旧仮名で書くと「うすらひ」となります。

「薄氷」「うすらい」「うすらひ」、この淡くはかない氷を表現するのに、どの表記が適しているでしょうか?
「鴬」は「うぐいす」「うぐひす」、「囀り」は「さえずり」「さへづり」、「鬼灯」は「ほおずき」「ほほづき」‥‥などなど、比較してみると、旧仮名‥‥と言うか、本来の日本語のなんと美しいことでしょう。

俳話集の「不易流行」の項で書きましたが、芭蕉の俳諧論の基本である、この「不易流行」とは「和歌の雅やかな世界と俳諧の通俗性の融合」なのです。俳言(はいごん)と言う俗語を使い、庶民の通俗的な世界を詠う文芸だからこそ、雅やかな言葉を使う必然があるのです。

あたしは、俳句を始めた中学生の時は、もちろん新仮名で書いていました。でも、色々と古典を勉強して行くうちに、通俗を詠う俳句にこそ雅やかな旧仮名を使うべきだし、また、たった17音しかない俳句だからこそ、表現力の豊かな旧仮名が必要である、と言うことに気づきました。
あたしが俳句に旧仮名を使うのは、俳句、そして季語の本意を踏まえた上で、より適切な表現をしたいからなのです。

一字一音に神の宿る言の葉を編んで行き、いつかは、短冊の上に17人の神々が降りて来るような作品が作れたら、と思います。

編集・削除(編集済: 2022年08月24日 04:15)

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