第二十七話 季語の声
しばらく前に「未完の可能性」と言う項に書きましたが、俳句は、作り手と読み手がいて、初めて完成する文芸です。
自分は俳句を作るだけで、他人の作品は一切読まない、と言う俳人はいないと思います。そして、俳句を作る技術や感性は、そのまま読む力として反映されます。つまり、俳句を作るのが上手な人は、他人の作品を読む力も優れていると言うことになります。
あたしは、中学の時に古典と出会い、その雅やかな世界に惹かれました。しかし、古典は勉強すればするほど奥が深く、毎日放課後になると、図書室に通ったり古文の先生に質問しに行っていました。
時代を追って古典を勉強しているうちに、平安の和歌から江戸の俳諧へと興味が移り、最終的に芭蕉にのめり込んでしまいました。
そんなあたしに対して、その先生は「俳句は、読むことと作ることが対(つい)になっている文芸だから、もっと芭蕉のことを知りたければ、自分で俳句を作ってみなさい。」とアドバイスしてくれました。
先生は、ある俳句結社に所属する俳人でもあったので、見よう見まねで作ったあたしの俳句を添削してくれたり、自分の所属結社の句会や吟行会に連れて行ってくれました。これが、あたしと俳句の出会いです。
つまり、あたしの俳句は「芭蕉の俳句をもっと深く読みたい」と言うところからスタートしたのです。
さて、「俳句を読む」上で一番大切なことは何でしょうか?
それは「愛する心」です。
俳句は、たった17音しかない舌足らずな詩ですから、どんな作品も、作者の想いを100%書き尽くしてはいません。
ですから、自分の気持ちをうまく表現できない幼い子供の話を聞いてあげるように、やさしい気持ちになって、作品の中に入り込み、愛を持って読むことが大切なのです。
俳句の表面に書かれた17音だけしか読まずに、それだけでその句が良いとか悪いとか判断するのは、自分に「読む力」が無い、と言うだけでなく、「作る力」も無い、と言うことになるでしょう。
先日、ある俳句のサイトの掲示板に、あたしは自分の書き込みの例句として、阿波野青畝と正木ゆう子の代表句をあげました。そうしたら、それらの句に対して、ちゃんと読んだ上で「好きか嫌いか」と言うなら分かりますが、俳句の表面に書かれた文字を読んだだけの、議論する価値もないレスがつきました。
初めから敵意のようなものを持ち、欠点ばかりを探しながら、重箱の隅をつつくような気持ちで話を聞いていたら、幼い子供は決して心を開かないでしょう。
俳句は座の文芸ですから、歯に衣着せずに議論しあって磨いて行くものです。しかし、まずは愛を持って作品と対侍し、17音の奥にある作者の想いを読み取るための努力をし、それから批評しなければいけません。
表面に書かれた文字だけを読んでの批評は、歯の浮くような誉め言葉を並べるにしろ、理屈を並べて批判をするにしろ、「何も生み出さない」と言う点においては全く同じです。
愛を持って俳句を読むと、それが良質の作品であれば「季語の声」が聞こえて来ます。そして、描写と響き合い、17音の奥にある広い世界が見えて来ます。
例えば、こんな句があります。
猫柳添水(そうず)の水に浸けてあり いはほ
これは、昭和6年のホトトギスに掲載された松尾いはほの句です。
この句を読んで、「切った猫柳の枝が添水の水に浸けてある」と言うことしか読み取れない人は、作句においてもその程度の力しかありません。
俳句の観賞と言うものは、まずは季語の本意を感じ取るところから始めます。
「猫柳」は春の季語ですが、冬の終わりから咲き始め、春の到来を告げる花です。ですから、この句の舞台となる季節は、春も浅い、まだ寒い時期となります。そして、切った猫柳の枝が水に浸けてあるのだから、これから来客のために花器に移すのでしょう。と言うことは、時間帯は朝と言うことになります。
つまり「まだ肌寒い早春の朝」と言う情景を思い浮かべてから、初めて句意の観賞に入るのです。
この場合、通常の来客がある、と考えるより、猫柳の本意に沿えば、お茶会がある、と考えたほうが理にかないます。
お茶も俳句と同じで、その時期の一番早い花を季節への挨拶としますので、猫柳を活けると言うことは、立春を過ぎた最初の日曜日のお茶会です。
その家の主(あるじ)が、剪定バサミを手に朝早くから庭に出て、集まるお客様ひとりひとりのことを想いながら、どの花でもてなそうかと木々を見てまわったのでしょう。そして、銀色に輝く猫柳に目をとめ、やわらかい花を指で撫で、枝の形と花のつき具合の良いものを剪定したのです。
時計を見ると、お客様が見えるまで、まだ時間があります。主は、ひとまず庭の添水桶に伐った枝を浸け、他の準備のために、いったん家の中へと入って行きました。
そこへ通りかかったのが、この句の作者なのです。お茶室があるくらいだから立派なお宅だと思いますが、日曜日の朝の散歩に出た作者は、ふと覗き込んだ庭の片隅の、この「猫柳を添水桶に浸けてある光景」に目をとめたのです。
それは、「浸けてあり」の「あり」から読み取れます。
そして、これからしばらくすると、その猫柳はお茶室の掛け軸の下に飾られ、主の大切なお客様たちに季節の挨拶をするのでしょう。
身の引き締まるような空気の中、やわらかな早春の日差しを浴び、なめらかな銀色の光を放つ猫柳から、お客様を待つ主のワクワクした気持ちが伝わって来ます。
作者は、添水桶の猫柳の枝から、来客を心待ちにする主の心情までを読み取り、自分の主観を排除して客観的に切り取りました。そして、その主のワクワクした気持ちは、70年以上経った今でも、あたしの心に響いて来ます。
俳句を読むと言うことは、愛する心を持って作品の中に入り込み、季語の声に耳を傾ける、と言うことなのです。
そして、その声が聞こえるかどうかは、読み手しだいなのです。