第二十八話 削指導とは?
俳句のホームページは、出版社が運営している本格的なものや俳句結社が信者集めのために運営しているもの、著名な俳人が個人で運営しているものから、この「きっこのハイヒール」のように、ただの俳句マニア(笑)が趣味でやっているものまで様々です。また「俳句専門」ではなく、個人ホームページの中に俳句のコンテンツを作っているものまで含めると、俳句関連のサイトの数は数え切れないほどあることでしょう。
あたしが今までに覗いたことのある俳句のサイトは、全部で数十ヶ所くらいしかありませんが、句会を導入していたり、毎月テーマを決めて討論していたりと、それぞれが特色のある活動をしていて、勉強になることがたくさんあります。
しかし、ほとんどのサイトに無いのが「添削指導」なのです。
俳句を勉強して行く上で、一番早く上達する方法が「添削指導」です。
と言うより、添削指導なくして俳句の上達はありえません。
ホームページを運営するほど俳句を好きな人達が、こんな当り前のことを知らないはずがありません。
それに、ほとんどのサイトは、初心の方やこれから俳句を始めたいと言う人達を対象にしています。それなら、なおさら添削指導の窓口を設けるべきなのでは?と思いますが、そう簡単には行かないのです。何故かと言うと、これには複数の理由があります。
まず第一に、添削と言うものは、とても時間が掛かるのです。作者の想いを汲み取り、句意を変えずに最良の形に推敲しようと思ったら、たった一句に何時間も掛かることもあるほどです。
そして第二に、俳句の世界には「添削指導」イコール「偉い先生」と言う図式があり、あたしみたいなのが添削などすると、周りから「なんだあいつは偉そうに!」と思われてしまうのです。
特に、結社に所属している俳人は、あたしの何倍も不自由で、自分のホームページとは言え、周りの目を気にしながら運営しなくてはなりません。添削指導などして、それが主宰の耳にでも入ったら、それこそ大変なことになるでしょう。
最近は、わりと自由に活動できる結社も増えて来ましたが、それでも若い俳人が添削など始めたら、周りからは、口には出さずとも「あの人、何様のつもり?」と言う目で見られることは間違いありません。
絵画や音楽の世界では絶対に許されない「他人の作品に手を入れる」と言う乱暴な指導は、主宰クラスの「偉い先生」だけに許された特別な行為であり、権威主義の俳人にとっては「俳句誌の添削や選句を何本持っているか」と言うことが、一種のステータスでもあるのです。
ですから、ほとんどの俳句のサイトには添削の窓口がなく、通常の投句コーナーなどで当り障りのない感想を述べ合うのが精一杯なのです。
でも、そうしたら、これから俳句を始めたい人や結社に所属していない初心の人などは、どこで勉強すれば良いのでしょうか?
俳句雑誌の添削のページなどに応募しても、採用になるのは何百と言う中の数句で、それも掲載されるのは何ヵ月も先の季節が変わった頃です。おまけに、雑誌の添削指導者のほとんどは、作者の想いなど汲み取らずに、文字の表面的な部分だけをサッと読んで添削するので、何の勉強にもなりません。ひどい添削になると、形を整えるために句意を変えてしまっているのです。
どんなに句の形を変えても、作者の想いを表現するのが添削の本意であり「そうそう!私の言いたかったことはこれなんです!」とならなくては添削と言えません。
ですから、たった1文字変えただけでも、肝心の句意が変わってしまっては、それは作者の想いより作品としての完成度を優先したと言うこととなり、添削とは呼べません。
今から10年ほど前に、こんなことがありました。
NHK出版から出ている「俳句」と言う隔月誌の投句コーナーに、埼玉県のある女性が投句をしていました。添削指導のコーナーではなく、一般の投句コーナーです。選者は、結社「狩」の主宰、鷹羽狩行と、銀座の飲み屋「卯波(うなみ)」のオカミサン、鈴木真砂女の二人です。
他の俳句誌の投句コーナーと同様に、投句する人はどちらの先生に見て欲しいのかを葉書に明記するのですが、この人は毎回「鷹羽狩行」を指名していました。そして、何度かの応募のうち、3回入選して、雑誌に作品が掲載されました。
さて、問題はここからなのです。
この女性の作品は、3句とも選者の鷹羽狩行が添削し、そして掲載したのです。
新聞や雑誌の投句欄では当り前のことですが、この女性は憤慨し「選者の鷹羽狩行氏が句を勝手に直し、それを掲載したのは著作権侵害、名誉棄損に当たる」として、NHK出版と鷹羽狩行を東京地裁に訴えたのです。
この女性の投句は、次の3句です。
波の爪砂をつまんで桜貝
井戸水からメロンの網目がたぐらるる
みのうえに蓑虫銀糸の雨も編め
これらの句を鷹羽狩行は、次のように添削しました。
砂浜に波が爪たて桜貝
井戸水からメロンの網がたぐらるる
蓑虫の蓑は銀糸の雨も編む
稚拙な原句に比べれば、いくらか俳句らしくはなりましたが、それでは肝心の句意はどうなのでしょうか。
原告の女性が裁判所に提出した証拠資料の中に、これらの句に対する解説があります。
「さざ波がちゃぽんと浜辺を掻いた後、色や形がまるで波の爪と比喩したくなるような桜貝があらわれた」
「冷たい井戸水につかってゆらめくメロンの姿をもちあげるさまは、中味はさてまず網をたぐりあげるさまに見られた」
「蓑虫は枯葉など側にあるものを無造作に身にまとう。おりしも降る美しい雨跡をレースのように編んでみたらいかが、と呼びかける意」
解説も句と同様に稚拙ですが、それはさて置き、この解説を読むと、添削によって句意が変わってしまっていることが分かります。
「俳句の世界では、応募した投句を選者が勝手に添削して掲載することが通例として行われている」と言うことを知らなかった初心者とは言え、通常の添削に対して、普通、裁判などを起こすでしょうか?
つまり、ちゃんと句意を理解し、より自分の想いに近づいた添削であれば、憤慨して裁判を起こすほどのことはなかったでしょう。しかし、弁護士もつけずにたった一人で裁判に臨んだ原告と、優秀な弁護士を揃え、持てる権力のすべてを駆使した被告とでは、勝負は最初から見えていました。
「本件雑誌の応募要項に、添削に関する記載はなかったが、俳句に関しての指導方法として添削は一般的であり、定着しているものと推測される。また本件雑誌は俳句の愛好家、とりわけ初心者、中級者を対象とした学習用の性格を有する雑誌であり、たとえ応募要項中にその旨が明示されていなくとも、指導者たる選者の判断において原句を添削して掲載することがあり得ることを前提として投稿句を募集していたものと推認される。」
このような理由により、原告の女性の全面的な敗訴となりました。
もちろん、これで原告の主張を受け入れてしまえば、全国にたくさんいるであろう同様の人達が、いっせいに各出版社や選者を訴え始める可能性もあり、その辺りのことも考えての判決なのでしょう。
しかし、残念ながらこの裁判では、一番重要な部分が論点とされていないのです。
それは「原句の句意や作者の想いまで変えてしまうことが、はたして添削と言えるのか」と言うことです。
作者の意図通りに「波の爪」は「桜貝」の見立てと分かるように添削し、「たぐらるる」ものは「メロンの入った網」などと言い替えず「メロンそのもの」とし、そして「蓑虫に対する作者の呼びかけ」をそのまま残すような添削をしていれば、裁判などにならなかったどころか、作者から感謝されていたかも知れません。
鷹羽狩行は、裁判において、「添削とは、作者の個性的な発想に作品をより近づけるための手助けである」と言うとても立派な発言をしています。しかし現実には、作者のその「個性的な発想」までも添削してしまっていたのです。これでは、もう作者の作品ではなく、選者の作品になってしまいます。
「俳壇の慣例」と言うぬるま湯の中で、俳句を作る力も読む力も鈍ってしまった多くの選者達は、どんなに拙い作品の中にも、それぞれの作者の想いが込められていると言うことをもう一度考え直すべきではないでしょうか?
あたしは、このホームページの「俳句添削箱」の他に、もう少し上級の人達や所属結社やネット仲間などの目が恐くて「俳句添削箱」に書き込めない人達のために、メールによる添削もおこなっています。
添削箱のほうに書き込みが溜っていると、メールの添削のほうが遅れたり、眠くて眠くてしかたない時は、簡単な言葉しか添えられない時もありますが、どちらの添削も自分自身の勉強でもあるので、常に真剣な気持ちで取り組んでいます。
俳句は数学ではありませんから「正しい答」と言うものはなく、あたしの添削が常にベストではありません。あたしの添削を見て、自分ならもっとうまく添削するのに、と思う人も多いでしょう。
でも、誰かがそう言った窓口を作らなければ、初心の人達に俳句への道は拓けないのです。
どこかの結社に入っても、毎月の投句の他に主宰クラスの添削を受けようと思ったら、通常で5句千円から二千円の添削料が必要となります。その上、初心者に対しては「て・に・を・は」の1文字を直す程度の添削しかしてくれない主宰もいます。
これは、良く言えば「自分の作品に手を入れられることに慣れていない初心者に対する配慮」であり、悪く言えば「ただの手抜き」です。
結局、結社に入ったところで、主宰の直接指導を受けられるのは中央在住の一部の会員だけで、地方に住む多くの会員達は、主宰の顔など年に一度拝めればいいほうです。こんな状態では、いつまで経っても上達などありえません。
だからと言って、地域のカルチャースクールなどで勉強しても、そんなところにいる指導者はゴルフのレッスンプロと同じで、基礎知識以外は何も学ぶものはありません。
つまり、現在の俳句界は、初心者にとっては八方塞がりの状態なのです。
そんなわけで、失うものなど何もない天下無敵の無所属俳人のあたしは、添削を受けたくても受けられない人達のために、陰口を叩かれても、あえて添削をしているのです(笑)
あたしの添削は、スピーディで的確、そして痒いところに手が届く解説、その上「無料」(笑)を売りにしていますので、ぜひ皆さま、利用していただきたいと思います。
添削を受けたくても受けられない人達と言えば、俳句を始めたばかりの人達だけではなく、雑誌で添削指導をしている偉い先生方も該当するので、ご希望の先生がいらっしゃいましたら、遠慮なく書き込んで下さい。
恥ずかしかったら、匿名でも結構ですから(笑)