MENU
5,528

スレッドNo.37

第三十話 ★俳壇のゴッホ達

先日、テレビのニュースを見ていたら、それまで1万円か2万円だと評価されていたヘタクソな油絵が、ゴッホの作品だと分かったとたんに6600万円になったそうです。絵自体は何も変わっていないのですから、ゴッホの名前代が6599万円なのでしょうか?ゴッホが描けば、落書きにでもとんでもない値段がつくのでしょうか?

絵だけでなく、書でも陶芸でも全ての芸術は、作品の良し悪しではなく、作者の名前でその価値が決まるようです。

しかし、文学の世界は違います。例えば小説なら、どんなに著名な作家が書いたとしても、作品の内容がつまらなければベストセラーにはなりません。短歌でも、俵万智の「サラダ記念日」がベストセラーになったのは、内容が面白かったからです。つまり、小説や短歌などは、一般の人達が「面白いか面白くないか」と言うことをちゃんと判断することができるのです。
それは、どっちが上か下かも分からない抽象画や、何て書いてあるのか読めないような書などと違い、日本語さえ読めれば誰にでも意味が通じるものだからです。

それでは、俳句はどうでしょうか?

これが残念なことに、俳句は文学のジャンルに分けられているのにも関わらず、その評価基準は、小説や短歌よりも絵画や陶芸に近いのです。何故かと言うと、俳句は省略の詩であり、書かれた17音が全てではないからです。小説や短歌の何倍もの「読む力」が必要とされる上に、同じ句であっても読み手の感性によってイメージが異なって来るので、どんなに優れた作品であっても、小説や短歌ほどの普遍性が無いのです。

あたしが、最高水準だと思っている俳句のひとつに、次の作品があります。

  赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐

この句も、俳句を読む力の無い人が読めば「赤い椿と白い椿が落ちて、だからどうしたの?」と言うことになってしまいます。
これは、どっちが上か下か分からない抽象画を見るようなものでしょう。

つまり俳句は、絵画や書、陶芸などと同じように「観賞するためには特別な知識や感性が必要」なため、実際には正しく評価されていない場合が多いのです。

絵画や陶芸などの芸術から俳句に至るまで、本来は作者の名前など関係無しに、小説などのように作品だけで評価されるべきではないでしょうか?

月刊の俳句専門誌「角川俳句」や「俳句研究」などは、毎年年末になると「俳句年鑑」と言う分厚い増刊号を発行します。どこから出るものも似たような内容で、全国の主要俳人700名ほどの、その年に詠んだ作品の中から自選5句が掲載されます。その他に、一年間の俳壇の動きや主要結社の紹介などが掲載されます。
結社の紹介と言ってももちろん有料なので、お金を持ってる結社はデカい枠を買い取り、誰も知らないシタッパ同人の駄句までズラズラ並べるし、お金の無い結社は掲載を辞退したりします。(もちろんチャッカリした結社は、作品を載せてあげた会員達から、水増しした金額を掲載料と言う名目で徴収しています。笑)

そんな俳句年鑑の一番の楽しみと言えば、なんと言っても各結社の主宰達の自選5句を読むことです。主宰とは、もちろん結社の代表であり、その主宰が年間に作った数百、数千の句の中の選りすぐった5句と言うことは、その主宰個人の代表作と言うより、その結社の一年間の集大成と言えるはずです。

対談や評論などで立派なことを言っている主宰達と、素晴らしい俳句理念を掲げている結社の本当の姿が、どれほどのものなのか、徹底的に勉強させてもらうチャンスなのです。
賢明なる「きっこ俳話集」の愛読者の皆様は、ここまでのあたしの言い回しを読んだだけで、この先の展開は見えて来たと思いますが、その通りなのです(笑)

少なくとも「俳句年鑑」なんて言う高くて重くてマニアックな雑誌なんか買うのは、一応は俳句のハの字くらい分かっている人達なので、ザッと目を通せば、良い句と悪い句の区別ぐらいすぐにつきます。

いつも立派な理論を並べている人達の実作がどの程度のものか、白日のもとに明らかになるのです。

手元にある2003年度版の「俳句研究年鑑」を徹底的に検証したところ、自身の作句理念に実作が全く追い着いていない主宰が、全体の約2割強、5句のうち2~3句がダメな主宰も入れると、なんと半分以上の主宰達が、日頃弟子達に言っていることを自分ができていないのです。
もちろん、編集部の人達だってバカじゃありません。
それどころか、ひとつの結社に染まっている井の中のカワズ達よりも、仕事上で色々な結社の作品を読んでいるぶん、俳句を観賞する目が正しかったりします。ですから、ペコペコと頭を下げながら頂いて来た俳壇の大御所達の玉稿を見た瞬間、「これをこのまま載せたらヤバイなぁ~」って思うはずです。そのための編集部のフォロー、それが、著名俳人によるヤラセの作品鑑賞なのです。

俳句年鑑のページを開くと、80代、70代、60代‥‥と、著名俳人を年齢別に分け、それぞれ持ち回りの担当俳人が、作品を鑑賞しているのです。これが毎年毎年これでもか!って言うぐらいのヤラセ爆発で、あまりのくだらなさに開いた口が塞がらなくなります。

80代、70代の大御所の作品は、どんなにひどいものでも、読んでいるこっちが恥ずかしくなるほどのオベンチャラでホメまくります。
そして、60代、50代の中堅の主宰達には当り障りなく、40代、30代の若手の句は重箱の隅をつつくようなアゲアシ取り。これが毎年繰り返されています。

だいたい一番不思議に思うのは、本来なら、まず作品があって、そのあとに鑑賞があるべきなのに、1ページ目から大御所達のひどい作品をホメまくり、十分に読者を洗脳したあとに、初めて作品一覧が表れるのです。先に感想を言っておいてから作品を公開するような文芸なんて、普通はありえないでしょう。

今年の80代の作品鑑賞は、「参」の岩城久冶が書いていて、取り上げられているのは、「らん」の最長老、清水径子、「かつらぎ」の筆頭同人、下村梅子、「沖」の実質的な主宰、林翔、「秋」の主宰、文挟夫佐恵、「杉」の主宰、森澄雄、「海程」の主宰、金子兜太などなど、全員が明治か大正生まれのそうそうたる顔ぶれです。
例えば、下村梅子の場合、

  雪片のごと散りしきる夜の桜

  矛(ほこ)立てしごとくに芭蕉巻葉かな

  風の葛一揆のごとく立ち上がる

  用水に心中者めく捨案山子

  木の葉とぶ木の葉めきたる蝶もとぶ

この5句をホメまくっていますが、「ごと」「ごとく」「ごとく」「めく」「めきたる」と、全て見立ての句で、どこにも新しさは感じません。

少なくとも、2~3年俳句を勉強している人でしたら、この5句がどれくらいの水準のものか、あたしが言わなくても分かるはずです。

これらの句が、もしもあたしの句だとしても、岩城は同じように絶賛してくれるのでしょうか?
答えは「NO」です。同じ絵でも、作者がゴッホだから評価するのであって、作者があたしだったら、6600万円の句も1万円になってしまうのです。
「諷詠」の主宰の後藤比奈夫の作品に対する岩城の評は、次の通りです。

  飴をもらひて敬老の日と思ふ

取り立てたものでないところにむしろ敬老の心が生かされている。このさりげなさが氏の独壇場で、さまざまな会でご挨拶に立たれる時に、どのような話が出てくるのだろうといつもわたくしは楽しみにしているのである。

  意地悪くこんにやく玉になつてゐし

ご挨拶の中にも隠し味のように皮肉やユーモラスやエスプリがある。

ダンディな氏ならばこそ、

  貴婦人の歩み春風裡のきりん

と詠めるのである。

これって、作者を抜きにして純粋に作品を鑑賞してるどころか、作品を抜きにして作者を鑑賞して、オベンチャラ言ってるようにしか見えません。
他の作者の句に対する評も、全て評などと言えるシロモノではありません。

「老いの心境とはこういうことかと、しみじみと書き写している。」

「この作者にもやはり老いの意識はあきらかに措辞として顕著である」

などなど、作品を単体として批評しているのではなく、完全に作者の背景を熟知してのオベンチャラが続いて行きます。いくら作品の中にホメる部分が見つからないからって、作者を「ダンディ」って何?(笑)
27名もの俳人の句を合計150句近くも鑑賞していて、その全てをホメタタエています。ちなみに、もしもこれらの句が句会に出たら、あたしが取れる句は20句ほどでした。

続いての70代俳人の評は、「馬酔木」の編集長、橋本榮冶が担当していますが、これもヒドイものです。よくもここまで次から次へとホメ言葉が出て来るもんだと、関心してしまいます。
「鶴」の主宰、星野麥丘人の次の句を読んでみて下さい。

  ヤマト糊買つてかへりぬ秋の暮

  春の山トンボ鉛筆落ちてをり

これらの句に対する橋本の評は、

「ヤマト糊とトンボ鉛筆、泣かせる材料ではないか。決めどころというか、俳句の壺をよくご存じだ。」

おいおいおいおい!マジで?
あたしは呆れ返ってオヘソでカプチーノを沸かして一服しちゃいました(笑)

そのくせ、40代、30代の担当者は、作品に傍線まで引いてボロクソの評ばかり。
どんなにヒドイ句でも、高齢者であれば手放しでベタボメし、若手の作品は重箱の隅をつつくような酷評。

これは1年前の俳句研究年鑑の小澤實の作品です。

  床に髪掃きあつめあり秋の暮

  鯉老いて鯰に似たり春のくれ

次に、これらに対する担当者「陸」の主宰、中村和弘の評をあげます。

「小澤實作品にしてはどれもいささか疑問。今年はどうしてしまったのだろう。季語の〈秋の暮〉〈春のくれ〉の置き方の安直さ。平仮名で「くれ」と書いているがそこに何か意味があるのだろうか。(後略)」

もちろん、後略と書いた部分も、酷評が続いています。ちなみに、小澤は「澤」の主宰ですが、まだ40代です。

  ヤマト糊買つてかへりぬ秋の暮 麥丘人

  床に髪掃きあつめあり秋の暮 實

いくら担当者が違うとは言え、上の句が絶賛され、下の句は安直と言われています。
どちらの作品が優れているのか、誰の目にも明らかなのではないでしょうか?

前出の星野麥丘人のヤマト糊とトンボ鉛筆の句をもしも小澤に酷評を浴びせた中村が読んだら、どのような批評をするでしょうか?
あたしは断言します。絶対に正しい評などするはずがありません。
逆に、この酷評を受けた小澤實の作品を星野麥丘人の作品だと偽って提出したら、今度は手のひらを返したようなオベンチャラの嵐が吹き荒れるに決まっています。

何故って、現在の俳壇において、70代、80代の著名俳人ってみんな、二枚舌のタイコモチ達に祭り上げられた「ゴッホ」なんだから!(笑)

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top