第三十二話 きっこ徒然草(笑)
今回の「俳話集」は、兼好法師ならぬ吉好(きっこう)法師の徒然草をお送りしま~す♪(笑)
【序段】
つれづれなるまゝに、日くらし、パソコンにむかひて、俳句に関するよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、毒舌こそものぐるほしけれ。
(現代語訳)
タバコや発泡酒の税金の引き上げにも負けず、マックのチーズバーガーの値上げにもめげず、怒涛の如く押し寄せる杉の花粉にもひるまず、明日止められるかも知れない電気代をやりくりし、日々パソコンに向かい、愛する「俳句」についての色々なことを思いつくまま打ち込んでいると、こんなファッキンな世の中、ついつい毒舌になってしまいます。
【第三段】
万にいみじくとも、客観写生句を好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の艶もくすんだ心地ぞすべき。
露霜にしほたれて、所定めずまどひ歩き、主宰の諫め、同人の謗りをつゝむに心の暇なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、無所属となり、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、客観写生にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。
(現代語訳)
モノを見ずに器用に俳句を作る俳人達って、そのうちセックスまで想像の中だけで処理してしまうような男になってしまい、目も耳もアレも宝の持ち腐れになっちゃって、何のために生まれて来たのか分からないじゃん!「写生」を否定するってことは「射精」も否定してるんだよ!(笑)
俳句結社に入って何年も経つのに、本当の俳句ってものの姿が未だ見えず、朝まで飲み屋をハシゴして、明け方、フラフラと千鳥足で歩いていると、色んな想いが脳裏をよぎる。
主宰や同人の言葉も何だか薄っぺらく思えて来て、それなのに「きっこ俳話集」を読んでも、自分のことを言われてると言うことにすら気づかず、結局何も分からないまま結社を辞めちゃう人達って、もしかして先天的なマゾなの?(爆)
だけども、客観写生一筋って言ってる俳人達だって、カンジンの自分のことを客観的に見られないんだから、どっちにしてもホドホドにってのが、俳句を続けて行く上でのポイントなんだよね。
【第六段 】
わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらん中堅にも、弟子といふものなくてありなん。
前中汀子・九条大政狩行・兜太、みな、族絶えむことを願い給へり。大岡信大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるは、わろき事なり」とぞ、世継の朝日新聞には言へる。
(現代語訳)
俳句を作ることより、俳壇での権力や名声を欲しがるアホな年寄り達だけでなく、最近は中堅結社の主宰達までもが、一人でも多くの会員を集めて、自分の地位の確立ばかりに必死になってる。
稲畑汀子も鷹羽狩行も金子兜太も、みな、作品を残すことよりも名前を残すことに執着している。
「折々うた」の大岡信は、「弟子なんかいないほうがいい!自分の弟子が、自分の作り上げたスタイルを壊して次のステップに行っちゃっうのが怖いから、規則でがんじからめにして、才能のある若手の芽を摘んでるんだから!」って、付き合いで購読してる朝日新聞に書いてあったぞ。(笑)
【第九段】
女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかんめれ、人のほど心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、電話越しにも知らるれ。
ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女の、うちとけたる寝ヰもねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ主宰を思ふがゆゑなり。
まことに俳句の道、その根深く、源遠し。六塵の楽欲多しといへども、みな厭離しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。
されば、女の髪すぢを縒れる綱には、大象もよく繋がれ、主宰のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり。
(現代語訳)
女性の美しい髪の毛や外見って、理屈抜きで男性にアピールしてる。だけど、その女性の本当の性格やキャラクターは、電話でちょっと話しをしただけでも、すぐにバレちゃう。
これは俳句も同じことで、テクニックのある俳人がアタマの中だけで作った作品って、一見素晴らしく見えるけど、所詮はハリコのトラだ。
こんなレベルの作品で騙せるのは、完全に洗脳されている、会員と言う名の信者だけだ。
本当の俳句と言うものは、自分の意志で作り出すのではなく、心の奥から湧き出て来る、抑えることのできない言葉なのだ。
人には、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、そして第六感と呼ばれている感覚があり、それを総じて「六根(ろっこん)」と呼んでいる。
これは、棺桶に片足突っ込んでる俳壇のご老体でも、昨日俳句を始めた初心者でも、屁理屈ばかりこねてる評論家でも、何にも分かってないホトトギスの縄文式俳人でも、深夜のコンビニの前にタムロってるバカなガキどもでも、みんな持ってる普通の感覚だ。
そんなこんなで、女性の長い髪のような、外見の美しさだけの偽俳句などに騙されているのは、主宰の飴とムチの使い分けで芸を仕込まれたサーカスの象みたいなもので、そこまで洗脳されちゃうと、主宰の臭い靴の革で作った笛の音にも、大喜びでダンスを踊っちゃって、臭い靴の匂いまで、ありがたくて素晴らしく感じちゃってるみたい。バッカじゃないの?(笑)
【第十二段】
同じ心ならん人としめやかに句会して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、たゞひとりある心地やせん。
たがひに言はんほどの事をば、「マジ?」と聞くかひあるものから、いさゝか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思ふ。
げには、少し、かこつ方も我と等しからざらん人は、大方のよしなし事言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。
(現代語訳)
自分の感性と響き合う人達と座を持てば、素晴らしい句もくだらない句も、全ての句が命を吹き込まれるけれど、つまらない人間関係に振り回されて、本当は良くないと思ってる句まで無理にホメ合ったりしてる座って、何だか、全て談合で済まそうとする鈴木宗男と変わらないんじゃないの?
俳句ごっこの仲良しクラブの座なら、自分の理解できない意見に対して「ホント?」と聞いてみたり、「あたしは、そうじゃないと思う」なんて言っちゃうと、すぐさま雲行きが怪しくなって、奥歯にモノの挟まったような村八分が始まる。
そんなファッキンな座からは、一時的なほのぼの気分は味わえるかも知れないけど、何にも生まれて来ない。
でも、本当に俳句を愛する人達との座を持つことができれば、何でも正直に言い合い、お互いを磨き合い、ともに成長して行くことができるのだ。
ここ、「きっこのハイヒール」のように♪
※「きっこ徒然草」は、反響しだいでは、また続編を書き下ろしたいと思います(笑)