第三十三話 自分の言葉
以前、「短歌はCD、俳句はレコード」と言う項で「俳言(はいごん)」について触れましたが、説明が不十分だったので、今回の俳話で補足したいと思います。まだ「短歌はCD、俳句はレコード」を読んでいない方は、そちらを先に読んでいただきたいと思います。
「俳言」とは、もともとは俳諧(連歌)特有の言葉であり、雅やかで俗を嫌う和歌に対してのアンチテーゼとして生まれたものです。和歌で禁止されていた外来語(漢語)や流行語などを俳言と呼び、それらを詩の中に使うことこそが、俳諧の存在理由でもあったのです。そして、その俳諧の発句(ほっく)が独立して生まれた俳句にも、その俳言は継承されているのです。
俳諧の発句と言えば、まずは「575の定型」であると言うこと。それから「その季節の季語」を詠み込むこと。そして「や、かな、けり、などの強い切れ字」を使うこと。
この3つが、俳諧の発句を作る上で、最低限守らなければならないルールです。
このあたりのことから、「俳句は定型、季語、切れである」なんて知ったようなことを言ってる「ナンチャッテ俳人」も多いのです。でもこれは、あくまでも俳句を作る上で守らなければならない最低のルールであって、この3つだけ守っていても、「一応は俳句と呼べるもの」しかできないのです。本当の俳句と言うものは、この3つのルールを守った上に、さらに重要なことがあるのです。
俳諧の発句は、その座に招いた客人が詠みます。そして、その座の主(あるじ)が脇を受け、そこから俳諧がスタートします。
例えば、あたしが俳諧の座を設けたとします。美味しいお菓子やお酒などを用意して、何人かの近所のお友達を集め、お部屋の用意をします。そこに、遠方より、久しぶりに会うお友達が到着します。
その人は、季節の言葉(季語)を盛り込んで、今日の座に招かれた喜び、久しぶりに会うあたしへの気持ち、集まってくれたあたしのお友達への感謝などを575で詠います。そして、その句に対して、主であるあたしが、77の脇を返すのです。それから、575、77、575、77‥‥と続いて行くのです。
つまり、発句にとって一番重要なこととは、自分を招いてくれた相手に対する「挨拶(あいさつ)の心」なのです。俳句は俳諧から独立したので、贈答句などの特別な場合を除き、誰か特定の人への挨拶ではなくなりました。しかし、移り変わる季節への挨拶、花や鳥や小さな命への想い、自分自身が生きていることの喜びや感謝の気持ち、それらすべての心が挨拶の言葉となるのです。
さて、俳言の話に戻りますが、もともとは和歌への反発から生まれた俳言なのに、現在では、俳句よりも短歌のほうが数倍も俳言を多様しています。
これは短歌が、過去の和歌のように一部の高尚な人々だけの文芸ではなく、それどころか、かつての江戸俳諧のように、完全に市民権を得てしまったと言うことの象徴でしょう。そして、短歌に比べ、流行語などの俳言に対して未だ寛容ではない俳句は、逆に市民の文芸から一部の高尚な人々だけのものとなってしまいました。
このあたりのことまでは「短歌はCD、俳句はレコード」の項にも簡単に書きましたが、それでは、俳句が市民権を取り戻すためには、くだらない流行語などをどんどん使うようにすれば良いのでしょうか?
俳言と言うものは、もともとは、特定のジャンルの言葉を指す総称でした。それは「和歌や他の詩などでは禁句になっていて、俳諧だけで使える俗語」と言う意味合いからのジャンルの特定でした。
しかし現在では、和歌が進化した短歌だけでなく、他の詩型や商業広告のコピーに至るまで、ありとあらゆる文字媒体に、いわゆる「俳言」が使われていて、唯一なじんでいないのが、肝心の俳句だけなのです。
つまり、今さら俳句に流行語や外来語を無理やり使ったところで、俳言の本来の目的である「他文芸との差別化」などは生まれて来ないのです。
ここから、あたしの個人的な見解を書いて行きます。
すべての文芸が日常的に俗語を使うようになった現代では、「俳言」と言う言葉のジャンルそのものが消失してしまい、俳句における俳言とは、「言葉」ではなくなってしまったのです。しかし、それは「俳言性」とでも呼ぶべき精神性として、受け継がれて行かなくてはならないのです。
現代俳句に、何か足りないものを感じる。型も整っていて、季語もピタリと決まっていて、切れ字も効いている。
それなのに、何かが足りない。そう感じる人がいるとしたら、それは、現代俳句全般に欠落している「俳言性」と言うものに、知らず知らずのうちに気づいている感性の豊かな人なのです。
先ほど、俳句の基本は挨拶である、と書きましたが、自分の喜びや感謝の気持ちを表すのに、よそ行きの言葉と、心から自然に出た言葉と、どちらが想いを伝えられるでしょう。
もともとは、よそ行きの言葉で雲の上の恋愛を描いていた和歌に反発し、自分達が日常使っている俗な言葉、つまり俳言を使い、夢の中だけだった詩の世界を現実へと引き下げたのが俳諧なのです。
つまり、現代俳句における俳言とは、流行語や外来語などに捉われず、「常に自分の言葉を使う」と言うことであり、これこそが「俳言性」と言うものなのです。
使い古された言い回し、どこかで聞いたような比喩や見立て、歌謡曲の歌詞に出て来るような擬人化、こんな言葉を使っていて、自分の想いを表現できるはずがありません。自分の感動や自分の想いを表現するのに、どうして人の使い古した言葉を使うのでしょうか?
俳句と言うものは、すべての対象に対しての挨拶の心、つまり、すべてを愛する心なのです。そのために俳句は、定型、季語、切れ、そして一番大切な俳言性を備えていなくてはならないのです。
自分の目で見て、自分の感じたことを、自分の言葉で詠う。
これが俳句であり、現代俳人の多くに欠落していることでもあるのです。
その証拠が、類句の多さです。同じ光景を100人の俳人が詠んだとしても、手垢のついた言葉などに頼らずに自分の言葉で詠えば、100通りの俳句が生まれるのですから。