第三十五話 俳句のリフォーム
俳句と言う詩型を形成するのは、定型、季語、切れ、俳言性(はいごんせい)の4本の柱です。しかし、俳言性と言うのは、俳話の「自分の言葉」の項で書いたように、あたしの作句理念の中心となる俳論であり、あたしの造語です。そして、現代俳人の多くは、残りの3本の柱だけで「俳句もどき」を作っているので、古い材木で建てた家のような、足場のグラグラした俳句ばかりが溢れているのです。
今回の俳話は「自分の言葉」の項で俳言性について読んでいただいたと想定して、残りの3本の柱について書いて行きたいと思います。
まず「定型」と言う柱についてですが、ハッキリ言ってこんなもの、わざわざ書くほどのことではありません。
長い日本の詩の歴史において、本来「詩」と言うものは全て「定型」だったのです。
一般の文章と違い、575なり、57577なり、言葉と言うものは、定型と言うリズムを与えられて初めて詩となりえたのです。つまり「定型である」と言うことは、日本の全ての詩の絶対条件であり、前提以前のことだったのです。ですから、あえて定型を唱う必要などなかったのです。
しかし、明治時代以降、文明開花とともに文語の自由詩が誕生し、そして口語の自由詩へと発展して行きました。
そして、自由詩との差別化をはかるために、それまでは当り前だった「定型」と言うことをわざわざ口にしなくてはいけなくなったのです。
続いて「季語」と言う柱ですが、こちらも明治時代になってから作られた言葉で、それまでは「季の詞」とか「季の題」とか呼ばれていました。
連句の発句から生まれた俳句には、「自分の言葉」の項で書いたように、発句のルールがそのまま受け継がれています。
その中のひとつが「季の詞」ですが、こちらは「定型」や「切れ」ほどの強制力はなく、実際に芭蕉も多くの無季の句を詠んでいます。
連句では、絶対に季語を入れなければならなかったわけではなく、詩が季感を持っていれば良かったのです。
それが、明治時代になり、頭角を表して来た自由詩との差別化のため、旗印のひとつとして「季語」と言う新語を作ったのです。そのために、あたかも「俳句には季語がなくてはならない」と言うイメージができ上がってしまったのです。
当時の俳人達も、自由詩との違いをアピールするために、あやふやな季感などではなく、誰が見てもハッキリ分かる季語をこぞって詠み込んだのです。これが、季語を俳句の絶対条件へとまつりあげる原動力となったのです。
ちょっと余談になりますが、次の句をご存知でしょうか?
階段を濡らして昼が来てゐたり
知る人ぞ知る、今は亡き攝津幸彦の代表句‥‥ってあたしが勝手に思ってるんだけど、子宮の奥がジーンとして来るほど、たまらなく好きな句です。言葉としては矛盾してしまいますが、観念的客観写生とでも言うべき作品で、季語を使わずにこれほど季感のある句は、あたしは他には知りません。
この句の描写が表す季節は、もちろん「夏」であり、そう感じることのできた人は、俳人としてちょっとは見込みのある人です(笑)
季語を絶対条件とした現在の俳句では、この句は認められませんが、芭蕉の時代なら立派な俳句でしょう。
さて、本題に戻り、3本目の柱「切れ」についてです。
明治時代に自由詩が生まれたことにより、あえて言うようになった「定型」や、それまでの「季感」が道を間違えて生まれてしまった「季語」などと違い、「切れ」と言う柱にはとても古い歴史があります。
室町時代に書かれた宗祇の連歌論集「宗祇袖下」の中にも「切字(きれじ)」と言う言葉が書かれています。これは、今から500年以上も前の書物です。
さらに150年遡った1349年の「連理秘杪」と言う二条良基の連歌論集の中にも、次のような記載があります。
「かな、けり、常の事也。この他、なし、けれ、なれ、らん、又常に見ゆ。所詮、発句はまづ切るべき也。切れぬは用ゐるべからず。」
つまり、明治時代に生まれ100年ちょっとの歴史しかない「定型」「季語」に比べ、「切れ」と言う柱は、650年もの歴史がある、まさしく俳句の大黒柱なのです。
さて、この「切れ」に用いる「切れ字」ですが、室町時代から江戸時代にかけては「切れ字18種」と言って、「かな、もがな、し、じ、や、らん、か、けり、よ、ぞ、つ、せ、ず、れ、ぬ、へ、け、いかに」これらの18種類のみと決められていました。
しかし、芭蕉は、自らの俳諧の可能性を広げるために、ベルリンの壁のようなこのガンコな決め事を大きなハンマーで打ち崩したのです。それが、去来杪の中のあまりにも有名な次の一節です。
先師曰、切字に用いる時は、四十八字皆切字也。用ざる時は一字も切字なしと也。
分からない人のために、渋谷のセンター街でヒマそうにしている女子高生に、現代語に訳してもらいました。
「ってゆ~かぁ~昔の偉い人かなんかが言ってたみたいなんだけどぉ~あたしが切れ字だって言ったらぁ~どんな字だってぜ~んぶ切れ字だしぃ~切れ字じゃないって言ったらぁ~どれも切れ字じゃないみたいな感じぃ~あははははぁ~♪」
よけいに分からなくなったりしてぇ~♪
あ!伝染(うつ)っちゃった!(笑)
とにかく、芭蕉の振り下ろしたハンマーは、400年の歴史を誇っていた切れ字と言うベルリンの壁に大きな穴を開け、その穴から自由と言う新しい風が、俳諧と言う湿った四畳半へと吹き込んで来たのです。
芭蕉の俳論によって、お相撲の決め技やセックスの体位だけじゃなく、俳句の切れにまで「四十八手」が使えるようになり、お相撲観戦とセックスと俳句しかレクリエーションのなかった江戸庶民は、東京ドームの1塁側のスタンドで、大きなウェーブを起こしたのでした。めでたし、めでたし。
‥‥なんて終わるわけには行きません(笑)
この芭蕉の切れ字論のおかげで、一句一章を良しとしていた古臭い俳諧は、17音の中に立体的な世界を映し出す、二元的な取り合わせの俳句へと進化して行くのです。
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
例えば、この句の場合、それまでの切れ字の考え方から読めば、句末の「也(なり)」だけが切れ字なので、「初しぐれが降っている中に猿がいて、小さい蓑(みの)を欲しがっているように見える」と、一枚の写真を見るような、一元的な読み方しかできません。
しかし、芭蕉の考え方で読めば、「初しぐれ」で一度軽い切れが生じ、そして一拍おいてからそのあとの描写へと流れて行きます。つまり、読み手は、初しぐれに煙る遠景の写真と、雨に濡れた猿のアップの写真とを順番に見ることになるのです。
読み手の頭の中のスクリーンには、まず、初しぐれの降る景色だけが映し出されます。そしてカメラがゆっくりと回って行くと、岩の上に何か黒い影が見えて来ます。ズームで寄って行くと、雨に濡れた猿が寒そうにしています。
このように、写真であるはずの俳句が、2枚の写真で情景を立体的に読み取るため、映像のように映し出されるのです。
今でこそ当り前になった取り合わせの句も、芭蕉の斬新な切れ字論が出発点なのです。
それまで平坦な読みしかできなかった一元的な俳句は、松葉くずしや帆掛け舟などの新しい体位‥‥じゃなくて(笑)、名詞切れや「て」切れなどの新しい切れを手に入れたことにより、立体的な読みの世界へ進化したのです。
そして「初しぐれ」の句のように、ひとつの世界を二元的に表現する俳句から、さらには、別のふたつのものをぶつけ合うことにより第三の世界へと飛躍させる「二物衝撃」の俳句へと進化して行ったのです。
一番初めに、俳句の4本の柱として、定型、季語、切れ、俳言性をあげましたが、あたしの考えを正しく表現するとすれば、俳句と言うものは、まず「俳言性」と言うしっかりとした土台があり、その上に太くて立派な「切れ」と言う大黒柱が立っていて、そしてそれらを「季語」と言う屋根が覆っている、と言ったイメージなのです。「定型」は、俳句と言う家を建てるための設計図であり、あって当り前、無かったら家は建ちません。
つまり、俳言性のない俳句は土台のないグラグラの家、切れのない俳句は大黒柱のない頼りない家、季語のない俳句は屋根のない雨ざらしの家、定型を無視した俳句は設計図のないデタラメな家、と言うことなのです。
さあ、あなたも、吉幾三のリフォームの歌を口ずさみながら、崩れかけた自分の俳句を早いとこ頑丈に建て直しましょう!
北朝鮮からテポドンが飛んで来る前に!(笑)