第三話 字余りと字足らず
俳句は、575の17音と決まっていて、これを俳句の定型と呼びます。一句が17音をはみ出してしまうと「字余り」、17音に満たないと「字足らず」と言って、両方とも、あまり良いことではありません。
それでは、字余りも字足らずも同じなのか、と言うと、それは違います。1~2音程度の字余りは、状況によっては許されます。しかし、字足らずは、たった1音でも、絶対に許されません。
上5に「三月の」と置けば、ちょうど5音になります。でも「二月の」とすると4音になってしまい、このまま句を作ると16音の字足らずの句になってしまいます。そんな時、昔の俳人達は、この「二月の」を「にんがつの」と読み、字数を無理やり17音にしていたのです。
また「牡丹(ぼたん)の」や「蜻蛉(とんぼ)の」などの場合も、「ぼうたんの」「とんぼうの」と1音伸ばして読み、無理やり17音にしているのです
昔の俳人達は、こんなインチキをしてまで、字足らずになることを嫌ったのです。それほど、字足らずは良くないことなのです。
現代でも、このような方法を実践している俳人もいますが、これは字足らずを避けるためのインチキと言うよりも、昔の俳句の味わいを出すための、ひとつの演出と考えるべきでしょう。
一方、字余りも、基本的には良いことではありませんが、唯一許される場合があります。それは、必然があって、あえて字余りにする場合です。
作者の推敲能力が足りずに、本来17音に収まるべき句が字余りになってしまった、などと言うのは、絶対に許されません。しかし、「推敲を重ね、一度はきちんと17音に収まった、しかし、どうしても余韻を出したいために、あえて字余りになるように推敲し直した」と言う場合なら、字余りが認められます。もちろん、その作者の意図した通りに読み手に伝わって、初めて字余りが成功したと言えますが。
俳句には色々なルールがありますが、その中でも「季語」と「定型」の二つは、俳句の命とも言える大切な決めごとです。
俳人の中には、あえて季語の無い作品や575の定型を無視した作品を作り、それらを「自由律俳句」などと呼んでいる人達もいますが、あたしに言わせれば、それらは俳句ではなく、ただの「短詩」です。
種田山頭火や尾崎放哉などの作品も、季語があり定型を守っている作品以外は、「俳句」ではなく、「限りなく俳句的味わいのある短詩」です。
なぜならば、俳句と言う短詩のカテゴリーがあること自体、何らかのルールがあるからであって、そのルールを無視して何をやっても良いのであれば、カテゴリーそのものの存在理由が消滅してしまうからです。
俳句は、17音と言う定型のルールがあるからこそ俳句なのであって、それを無視して良いのであれば、「あ」と1文字書いても俳句、1000文字の長文を書いても俳句です。
それどころか、短歌と同じ575・77の形式で書いても俳句、と言うことになってしまいます。
定型詩の面白さは、決められた文字数の中で、どこまでの世界を表現することができるのか、と言うことです。
俳句は、世界中にある定型短詩の中で、もっとも短いものだと言われています。しかし、日本語は、同じものを複数の言葉で表現することができます。
例えば「12月」は、英語では「december」としか表現できませんが、日本語なら「十二月」の他にも「霜月」「霜降月」「雪見月」「雪待月」「神楽月」などの呼び方があり、表記の上では平仮名で書くこともできるので、その表現は倍になります。
世界で最も短い定型詩でありながら、俳句が無限の可能性を秘めているのは、世界で最も表現力の豊かな文字を使っているからなのです。つまり、定型を無視すると言うことは、自ら無限の可能性を否定してしまう、とても愚かな行為なのです。