第四十三話 本物の俳句の力
「良い俳句」って、どんな俳句なのでしょうか?
その答えは、俳人の数だけあります。
俳人であれば、誰でも「良い俳句」を作ろうとしているわけですし「こんな句を作れるようになりたい」と思う、目標とする作品があるはずです。
床の間の掛け軸に書いてあるような、解読不可能な文字で書かれてるような俳句を良いと思う人もいるでしょうし、使い古された言葉や手垢のついた言い回しを使った、カビ臭い俳句を良いと思う人もいます。理屈っぽくて人を唸らせるような俳句を良しとする人もいますし、何も言っていないようなボーッとした俳句が良いと言う人もいます。主宰にホメられることを目的に俳句を作っている人達なら、主宰がホメてくれた俳句が「良い俳句」と言うことになり、主宰の作品モドキを作ることが目標なのでしょう。
あたしから見ればアホみたいなこれらの俳句でも、俳句は自分のために作るのですから、どんな形であれ、自分が満足できれば良いわけです。
でも、せっかく俳句と出会い、俳句を勉強して、俳句を作り続けているのに、その成果が「自己満足」だけと言うのもちょっと悲しい話です。
あたしは、俳句を作ることを目的にはしていません。あたしの目的は「生きる」ことであり、俳句を作ると言うことは自己探求の手段なのです。
「生きる」と言うことは、死ぬまで自分自身を模索し続ける旅なのです。本当の自分を探す旅においては、いついかなる時でも、自分自身を客観的に見ることが必要であり、自己の主観や観念に縛られた考え方しかできない人は、何百年生きたって何も見えて来ないでしょう。
俳句を作ることによって、自分や周りのものを客観的に見る力を養い、五感や第六感に作用する対象の奥に隠された真実を見つけて行くこと。これが、あたしが俳句を作る理由です。
だから、掛け軸の読めない俳句も、カビ臭い俳句も、主宰にホメられるために作った俳句も、まったく興味がありません。前回の俳話「オヘソでカプチーノ」で取り上げた、山口青邨のインチキ写生句なんか、完全に論外です。
作句姿勢とは、その作者の生きざまです。頭の中だけで「虚」の句を作り続けている俳人は、他人の目や評価ばかりを気にした人生を歩んでいますし、主観や観念を全面に出した句を作っている人は、やたらと自己主張が強く、ホメられることは好きでも批判されることを嫌います。こう言う人達は「人にホメられる俳句を作ること」を目的としていますので、一生俳句を続けても何も見えて来ないでしょう。
趣味のひとつとして俳句を選び、仲間と楽しい時間を過ごしたいだけなら、それでも構わないと思います。一生をかけて、モノも見ずにそれらしい俳句を作る技術だけを学び、人間的には何も成長せずに死んで行けば良いのです。たかが趣味なんだから、多くを望む必要などありません。
結社の主宰や総合俳句誌の選者にも、こんな人はゴロゴロしています。子規にヘチマで叩かれても、虚子に頭突きを食らっても、草田男にバケツで水をぶっかけられても、爽波に火のついた茅の輪を投げつけられても、耕衣に正座させられて6時間説教されても、何も分からない人達です。
そして、死の間際に、自分が作り続けて来た「偽りの世界」を振り返った時に、とても虚しい気持ちになることでしょう。
このような人達がやっている「趣味の俳句ごっこ」ではなく、本物の俳句、すなわち「客観写生俳句」は、突き詰めて行くと、宗教よりも神に近づくことができ、哲学よりも真実を知ることができます。そして、科学よりも神秘的で、物理よりも絶対的なものです。また、音楽よりも心に響くリズムを持ち、絵画よりも対象を切り取る力を持っています。
一字一字に神々の宿る「ひふみ48字」を使い、対象の本質に迫り、真理を導き出す。それが客観写生俳句の持つ力であり、作品自体を目的としない特殊な文芸である所以なのです。
人間の外側の宇宙も内側の宇宙も、森羅万象のすべてを表現できる無限の17音の世界。
あなたは、苦しみながら技術だけを学びますか?それとも、楽しく遊びながら真理を追究しますか?