第四十四話 戦争と俳句
世界中のほとんどの人達が反戦ムード一色の中、日本時間の3月20日正午、アメリカとイギリスがイラクを攻撃して、ついに戦争が始まってしまいました。日本のトップも、国民の声を無視して、アメリカに同調する声明を発表しました。
戦争に賛成して経済的な支援をすると言うことは、そのお金が銃弾やミサイルになろうとも、戦後の復興のために使われようとも、結局は人殺しに使われることに変わりはないのです。
湾岸戦争の時は、何十兆円と言うあたし達の税金が、人殺しのために使われました。それだけのお金があれば、世界中の飢えている人達に食べ物を与え、治療を受けられずに死んで行く病気の人達を救うことができるのです。
今、第三世界では、30秒に1人、飢えや病気で子供達が死んでいると言うのに‥‥。
さて、戦争が始まり、当事国のアメリカやイギリスはもとより、日本やフランスなど、ほとんどの先進国で戦争に反対するデモが起こり、警察と衝突しています。
アメリカやイギリスでは、一般人のデモの他にも、有名なミュージシャン達が各地で反戦コンサートを行い、一刻も早く戦争を止めるようにと訴えています。マドンナは、新曲のプロモーションビデオの中で反戦を訴え、全米ツアー中のブルース・スプリングスティーンは、コンサートのオープニング曲を反戦歌に変更したそうです。また、シェリル・クロウは、ギターのストラップに「NO WAR」のメッセージを入れ、反戦グループを結成しました。三人とも、アメリカを代表するトップミュージシャンです。
ロンドンでは、オノ・ヨーコの平和を訴えるビデオメッセージが流れ、昨日のイギリスの世論調査では、戦争に反対する人の数が90%に達したそうです。
連日、世界中で反戦デモが起こっていますが、実際にデモに参加できない多くの人達も、ほとんどは戦争反対の意志を持っているようで、様々な媒体を通じて反戦のメッセージが飛び交っています。
日本でも、瀬戸内寂聴さんが戦争反対の新聞広告を出すなど、有識者の多くは、いち早く自分の見解をそれぞれの媒体で発表しています。
でも、あたしは俳人なので、俳句と言う自分の媒体では、戦争反対を訴えることができません。何故なら、俳句と言う詩型は、自分の考えや意志を伝えるためのものではないからです。
川柳や短歌、自由詩などであれば、いくらでも「戦争反対!」と叫ぶことができますが、俳句は、主観を削ぎ落とし、見たままを詠う詩なのです。「戦争反対!」と叫ぶのは主観の極致であり、最も俳句的ではないことなのです。
唯一、俳句と言う詩型にできることは、戦場まで出かけて行き、戦場カメラマンのように、自分の目の前で起こっている状況を主観を介入させずに、そのまま写し取ることだけなのです。そして、その句を読んだ人達が、「戦争など起こらないほうがいい」と思っても「場合によっては戦争もしかたない」と感じても、それは読み手それぞれの感性に委ねるしかないのです。
戦争が始まった日、「俳句deしりとり」でも、多くの戦争に関する句が生まれました。あたしも何句も詠みましたし、それはもちろん、戦争などすぐに止めて欲しいと言う願いからです。でも、これは川柳と言うジャンルの仕事であり、あたしはしりとり上で「川柳モードに突入」と発言してから詠みました。
あたしが遊びに行く他のサイトのしりとり俳句でも、たくさんの戦争に関する句が詠まれています。
やわらかく戦争をイメージさせるような句、自分が戦争に反対していると言う意志をハッキリとアピールしている句、人類の愚かさを指摘している句、かつての第二次大戦の悲劇を詠った句など、様々なパターンがあります。
あたし自身、戦争の句など詠むのは初めてなので、試行錯誤しながら、俳句と言う詩型でどこまでのことができるのかと模索しました。
しかし、辿り着いた結論は、やはり「俳句と言う詩型は時事的なことを詠うのには適していない」と言う、あたしが以前から思っていたことでした。
ブッシュがどうの、フセインがどうのと詠えば、完全に川柳のジャンルになってしまいますし、だからと言って、あたしが先ほど言ったように、戦争の状況を客観的に詠うにしても、テレビやラジオからの間接的な情報だけでは、正確に写生することはできません。
そして今回、一番感じたのが、「しりとり俳句」と言う媒体に戦争を題材にした句を書くことに、果たしてどんな意味があるのか?と言うことでした。
みんな、戦争に反対しています。その気持ちは、誰もが同じでしょう。そのような場で、これでもか、これでもかと戦争の残酷さや悲しさを詠い続けることに、何か意味があるのでしょうか?
サイトにアクセスした人達は、それらの句を読み、みんな重たい気持ちになり、句をつなげられなくて、無言で去って行くだけです。
ここで、ハッキリと言います。
俳句と言う詩型を志すあたし達にできることは、戦争を詠うことではなく平和を詠うこと、血だらけの戦場を詠うことではなく美しい自然を詠うこと、失われて行く命を詠うことではなく生まれて来る命を詠うことなのです。
これが、俳人の仕事ではないでしょうか?
海の向こうで恐ろしい戦争が起こり、罪の無いたくさんの人達が殺されようとしていて、その残虐な行為にあたし達の国も加担しています。そんな状況下で、ノンキに蝶や土筆などを俳句に詠むことなど、とんでもないと思う人もいるかも知れません。
でも、たくさんの人達の命が危険にさらされている状況だからこそ、たった一匹の蝶の命をいとおしむ心が大切なのではないでしょうか?人間のエゴと利権のために、広大な自然が焼き尽くされようとしている時だからこそ、大地から必死に顔を出す一本の土筆を詠むべきなのではないでしょうか?
直接的に戦争を詠うことは、それに適したジャンルの文芸に任せ、あたし達俳人は、今こそ、自然を慈しむ心、小さな命をいとおしむ心、人を愛する心、そして、すべてのものに感謝する心を詠うべきなのです。
それが、あたし達俳人の「戦争反対」と言うメッセージなのです。