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スレッドNo.52

第四十五話 冷血漢・水原秋桜子

あたしは、水原秋桜子(しゅうおうし)が大っ嫌いです。彼の俳句も俳論も嫌いですが、何よりも人間として大っ嫌いで、心の底から軽蔑しています。

秋桜子の猫嫌いは有名ですが、そんなことは別に構いません。世の中には、猫を嫌いな人はたくさんいます。ただ、あたしが許せないのは、秋桜子は「猫殺し」なのです。

秋桜子は伝書鳩を飼っていましたが、その中の一羽が野良猫に食べられたのです。仕返しに、その野良猫を捕まえて、空き部屋の中に放り込み、食べ物を与えずに餓死させたのです。

後に、弟子の加藤楸邨に、この時のことを「(その猫は)10日ぐらい生きていたよ」と、平然と語っているのです。

命あるものを10日間もかけて、じわじわと餓死させるなんて、もはや人間とは思えません。こんな最低な人間が、自然や生命の美しさを詠うなんて、ただの偽善野郎です。
昭和初期、秋桜子は、ホトトギスでのライバルだった高野素十の名句、「甘草の芽のとびとびのひとならび」をただの自然のままに過ぎないと批判し、自分は「自然の真」ではなく「文芸上の真」を追求して行きます。このことから、小さな生命を写生するこのような句を「草の芽俳句」と呼んでさげすむような風潮が生まれたのです。

結局、自分の師である虚子の客観写生を否定することとなり、「ホトトギス」を脱会し、「馬酔木(あしび)」を創刊、主宰します。

秋桜子の句は、1の事柄を10にするような、大げさな描写や感動の押し付けが強く、とってもウサン臭い。おまけに、「自然を尊ぶ」とか言ってるくせに、平然と猫を殺す冷血漢。

作句についても、「最上のものが発見できるまでじっと待ったほうがいい。適当なところで俳句をまとめようとすると、最上のものが発見できても見過ごしてしまう場合がある。
やはりいちばん感動するところまでじっと待って、作ったほうがいい」などと、トンチンカンなことを言っています。これは、多作多捨に対する開き直りなのか、はたまた、猫を殺す時の秋桜子のやり口にも通じる理論です。

こんな最低の人間にも一応は弟子がいるようで、有名なところでは、加藤楸邨、石田波郷、能村登四郎、藤田湘子などがいます。現在生きているのは、やっぱりあたしの大っ嫌いな湘子だけです。

晩年の能村登四郎は、秋桜子の俳句が間違っていたことに気づき、やはり俳句は客観写生であると言う結論に辿り着きました。

「私は、客観写生に辿り着くまでに、とても遠回りをしてしまいました」

これは、一般には公開されていませんが、晩年の登四郎の言葉です。
秋桜子の間違った理論に騙されている俳人は、他にもたくさんいますが、登四郎のように気づく人もいれば、騙されたままの人もいます。
普通に考えれば、残酷な手段で平然と動物を殺すような人間に、まともな俳句なんか作れるはずがないって、子供でも分かると思うんだけど‥‥。

図書館註:以上で「きっこ俳話集」全45話の完結です。見出しをもう一度アップしておきますので、あの俳話を再読したいという場合は、見出しを上の「検索」をクリックしてコピペしていただければ、読みたいスレッドがアップされます。

編集・削除(編集済: 2022年08月31日 01:13)

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