裏第二話 龍太の言葉
1885年、山梨県東八代郡の大地主の長男として生まれた飯田蛇笏は、早稲田大学の英文科に入学し、高田蝶衣の「早稲田吟社」に参加しました。そして「ホトトギス」と「国民俳壇」に投句を続け、虚子に認められます。そして、大正4年に、のちの「雲母」の前身となる「キララ」を主宰します。
その蛇笏の息子、飯田龍太と言えば、あたしのケッコー好きな俳人のひとりですが、今から30年くらい前、龍太は「竜太」と名乗っていました。でも、峰竜太や竜雷太に間違われるのがイヤなので、「龍太」と言う字にしたのです。
とゆーのはウソです(笑)
とにかく、今から30年ほど前、まだ龍太が竜太だった頃、とても興味深いことを言っているので、以下、紹介したいと思います。
『これからのあなたの俳句は?というのは、いちばん明快で、いちばん厄介な設問である。
しかし、それがハッキリしていないと、いい句は生まれない。朦朧(もうろう)としているときはスランプだ。正直のところ、私の場合は、一年のうち、九十何パーセントまでは、残念ながら、どうも後者のようである。
だが、スランプだからといって、手をこまねいていては、折角二、三パーセントの機会が訪れてくれてもそれさえとりにがしてしまうだろうから、せいぜい努力することにしているが、その手だてとして、三の目方のものは、三に表現することを工夫する。
ただし、実際問題として、そんなことは不可能だ。二・五でも二・八でも、できるだけそれに近づきたいと思う。戒めなければならないのは、三の感銘を四にも五にも増幅して、まぐれ幸いを得ようとする助平根性を出すことだ。
酔中、さる小説家が、こともなげに言った。「なに、立派な俳句?そんなもの、人間が立派でなければ生まれるわけはないよ」。かえす言葉もないが、それなら、不立派は不立派なりの目方の作品をつくることだ。中味につり合った正直な俳句にすることだ。自分の目方を上廻った作品を生もうと悪あがきをせぬことだ。それさえ不如意だったら、ひとの作品で堪能したらいい。
さいわいなことに、俳句というものは、至極短いから、その点まことに便利にできている。そのうえ、数多く思い浮かべる必要はない。せいぜい二、三句もあれば十分だろう。
当面、いま、私が気に入っている作品をひとつだけあげると、
元日の山見てあれど雪ばかり 室生犀星
この句、欲のないところがなんともこのもしい。』
この龍太、いや、竜太の文章には、まだ若く、さまぁ~ずの大竹(三村じゃないメガネのほう)にソックリの写真が添えられています。なんてことはどーでもいいけど、「はっきり」を「ハッキリ」と片仮名で書くのが、あたしのスタイルと一緒です。
なんてこともどーでもいいけど、見たものを必要以上に美化して表現したり、本当は感動なんかしてないクセに、大ゲサな表現で読み手に感動を強要する現代俳人たちに、この文章をファックスしたくなっちゃいます。
だって、人間的にはサイテーなのに、自分の目方を越えた、ご立派な俳句ばっかり作ってる俳人が多過ぎるんだもの(笑)