裏第四話 理想の俳句
俳句に限らず、どんな趣味でも、一番大切なのは「楽しむ」と言うことであり、それが趣味であることの大前提です。俳壇のお偉い先生方の中には、努力をしたりウンウンと唸ったり苦しんだりしなくちゃ良い句ができないと思ってる、時代錯誤のトンチンカンな人たちが多く、自分の弟子たちにも、そのような間違った指導をしています。
なんで、せっかく出合った「俳句」と言う楽しみで、苦しまなきゃいけないのでしょうか?
それなのに多くの俳人たちは、アホな主宰の言葉を真に受けて、題詠で唸り、投句で苦しみ、句会で悶絶しています。
ハッキリ言って、これは、日本と言う単一民族の島国根性丸出しの、そして敗戦国に良く見られる、努力や苦労を美徳とする時代遅れの勘違いなのです。指導以前の問題として、俳句結社や俳壇と言う封建的なシステムのあり方自体に、その傾向は強く残っています。
どの俳句結社も、一人でも会員を増やし、少しでも財政を黒字にしたいと思っているので、ひと昔前のような厳しい指導をするところは少なくなり、逆に、入会したての初心者のヘボ句を歯の浮くような言葉でホメてみたり、お年寄りには主宰自らが親切にしたりと、手を変え品を変え、必死にがんばっています。これが新興宗教だったら、入信したての若い信者は、一発で洗脳され出家してしまうし、お年寄りは優しい教祖様のお言葉をありがたがって、セッセと貯めた虎の子の年金で、妙なツボでも買わされちゃうところです(笑)
所属結社の毎月の句会にキチンと出て、毎月の投句も休まず、コツコツと10年、20年と真面目に俳句を続けていても、主宰や先輩の言うことを聞いているだけだったら、俳句の「技術」が身につくだけなのです。そして、俳句にとって一番大切な感性や自己表現と言ったものは、逆に消えて行ってしまいます。
主宰の指導通りに勉強していては、最終的には、主宰や幹部同人のコピーのような句を作るようになってしまうのがオチなのです。いくら「個人個人の感性を尊重します」とか言っていたって、結局は「主宰の感性」で句の良し悪しを決められてしまうのですから。
でも、俳句を始めて少しでも早く上達したいと思ったら、やっぱりどこかの結社に入会すると言うのが、一番の近道なのです。
それでは、俳句結社に入会し、そこでの活動を軸として俳句を学び、かつ、自分の感性や個性を失わない方法はあるのでしょうか?
それは、「自分自身の理想とする俳句のビジョンを明確に持つ」と言うことです。つまり、自分はどんな俳句を作れるようになりたいか、と言うことを常に明確にしておくことです。
ここで、大切なことが何点かあります。
ひとつは、「目標は手の届く距離に置くこと」です。やっと5m泳げるようになった人が、一気に太平洋を泳いで渡ろうとしても、それは無理な話です。高い目標を掲げることは素晴らしいことですが、まずは25m、50mと、手の届くところに目標を置き、少しづつステップアップして行くべきです。
それから、「主宰の句を最終目標にしてはいけない」と言うことです。
多くの人たちの一番の勘違いは、自分の所属結社の主宰を崇拝していて、主宰の句ならナンでもカンでも素晴らしい、と思い込んでいるところなのです。これは一種の洗脳で、それこそ新興宗教と変わりありません。虚子ですら、自分の生涯の句の中で自信を持っているのは数句しかない、と言っているのに、居酒屋のテーブルの上のビール瓶みたいに林立するそこらの中堅結社の主宰の句が、何から何まで素晴らしいなんてワケがありません。結社なんて、所詮は井の中のカワズの世界なんですから。
あたしから言わせると、主宰の句を目標にする、と言うことは、とても低い目標なのです。あなたが5mしか泳げないとしたら、主宰は(主宰のレベルにもよりますが)200mから2km程度だと思って下さい。
ですから、最低でも「10年以内には主宰以上の句を作る」と考えるべきなのです。
そして最後に、これは一番重要なことですが、「自分の目標とする俳句の姿を俳句として考えてはいけない」と言うことです。
たとえば、「滝の上に水現れて落ちにけり/夜半 のような句を作れるようになりたい」と言うように、誰かの句を理想のビジョンとして揚げてしまってはダメなのです。
多くの俳人たちが、とても低い目標であるはずの「主宰の句」すら越えることができないのは、主宰の作品自体を目標としてしまっているからなのです。
実際の句や俳人を目標としてしまったら、目標に向かって類似して行くだけで、越えることなどできません。
主宰の句を好きなことや、他にもたくさん好きな句があることは何ら問題ありませんし、とても素晴らしいことですが、それらに対しては、ただ単に「好きな句」「好きな俳人」として捉え、自分の作る俳句とは、一線を引く必要があります。
それでは、どんな目標の立て方をしたら良いのでしょうか?
それは、音楽や絵画、小説や詩、陶芸や書など、俳句以外のものを目標とするのです。
たとえば、「ベートーベンのピアノソナタ、月光のような句を作りたい」とか「横山大観の水墨画、月蓬莱山図のような句を作りたい」とか、そう言った目標の立て方をするのです。
俳句を作るのに、誰かの俳句を目標にしてしまったら、どんなにがんばっても目標を越えることができないばかりか、自分の個性までも失ってしまいます。ただでさえ「うちの結社は各人の個性を尊重します」とかヌカしながら、その指導方針は主宰絶対主義で、結局は主宰の感性が最優先されてしまう世界に身を置くのですから、自分の目標まで主宰の句にしてしまったら、それこそ結社の思うツボなのです。
あたしの場合は、目標とする俳句のひとつに、碧梧桐の「紅い椿白い椿と落ちにけり」があります。しかしこれは、この句の形や姿を目標としているのではなく、このくらいの水準の句をポンポンと作れるようになりたい、と言った意味での目標で、言い替えれば、ひとつのハードルのようなものなのです。
あたしの現在の本当の目標は、「フェイ・ウォンの夢中人(むちゅうじん)のような句」なのです。
フェイは北京生まれの33才、シンガーであり女優であり、その才能だけでなく、生き方もあたしの最も理想とする女性です。
この「夢中人」と言う曲は、アイルランドのバンド、クランベリーズの大ヒット曲「Dreams」のカヴァー曲で、クランベリーズの原曲も素晴らしいですが、フェイの曲は、完全に原曲を越えていて、あたしが生まれてから今までに聴いた全ての曲の中で、一番好きな曲です。
あたしがこの曲と出合ったのは、今から7~8年前に見た「恋する惑星」と言う香港映画です。それまで、香港映画と言えばブルース・リーとかジャッキー・チェンとかの三流アクション映画しか知らなかったあたしは、軽い気持ちで見に行ったこの映画からものすごい衝撃を受け、主演のフェイの魅力のトリコになり、エンディングで流れる「夢中人」の、生まれてから聴いたことのないほど美しいフェイの歌声に、体中がシビレてしまいました。
まるで極上のセックスをしたあとのように、その余韻で、映画が終っても席から立てなくなってしまいました。
夜のレインボーブリッジをオープンカーで走り抜けて行くような、この曲の美しさとイメージ喚起力、ワクワク感、ドキドキ感、そして疾走感は、あたしの俳句の理想とする姿そのもので、この曲のような句を作ることが、現在のあたしの近未来の目標なのです。
疾走感と言えば、芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」や、虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」などがありますが、直接的に「早い」「速い」などの言葉を使わずに、そして、これらの句のように疾走感を眼目とせず、それでいてスリリングなスピードを感じる句が当面の目標なのです。あたしの方法論で行けば、少なくともこの2句を越えることは容易でしょう。このように、自分の理想とする俳句の近未来の姿を俳句以外のジャンルとして明確に持ち、常にそのヴィジョンを頭に置きながら作句する、と言うことさえ続けていれば、たとえどんなにアホらしい縄文式結社に所属していても、主宰なんて言う低いハードルは、数年で簡単に飛び越すことができます。
それに、こうした目標の立て方をしていれば、主宰に評価されなかったからと言って、自分の自信作を捨てる必要などなくなります。
現在の地位に安住し、ぬるま湯から出られなくなっている主宰なんかとは、目標の次元が違うのですから、主宰に評価されないと言うことこそ、喜ぶべきことになるのです。
何よりも素晴らしいことは、大好きな俳句で、苦しんだり辛い思いをしたりしなくて済むようになり、心から楽しめるようになるのです。
これが、本当の俳句のあり方なのです。
図書館註:きっこの横の矢印をクリックすると「王菲 Faye Wong 夢中人」のOfficial MV が視聴出来ます。