第四話 季節のラブレター
短歌は、自分の想いを自分の言葉で表現することができるけれど、俳句には、それだけの文字数のキャパシティーがありません。それでは、俳句は、短歌ほど自分の想いを表現することができないのか、と言うことになってしまいますが、そうではありません。
俳句では、自分の想いは言葉にせず、季語に代弁してもらうのです。季節を表すたくさんの言葉たちは、ただ単に、その句がいつの季節のものかを知らせるだけでなく、作者の想いまでも表現してくれるのです。
季節の言葉のひとつひとつには、その文字が示す学術的な意味の他に、様々な情感が含まれています。それらを「季語の本意」と呼び、その季語の本意があるからこそ、たった17音の短詩が、何十文字、何百文字にも匹敵する世界を構築しうるのです。
例えば、「秋風」と聞いた人は、ただ秋に吹く風だけをイメージするでしょうか?
俳人でなくとも、日本で育って来た人ならば、ほとんどの人が、「寂しさ」「わびしさ」「物悲しさ」や「爽やかさ」「すがすがしさ」などのイメージを「秋風」と言う言葉と一緒に思い浮かべるはずです。
例えば、植物の名前なども、それぞれに本意を持っています。うまく言葉で言い表せない人でも、「チューリップ」と「薔薇(ばら)」と「薄(すすき)」から受けるイメージは、それぞれ別のものだと思います。
「かのひとへ手紙届けてチューリップ」
「かのひとへ手紙届けて赤い薔薇」
「かのひとへ手紙届けて枯尾花(かれおばな)」 (※枯尾花とは枯れた薄のことです)
ひどい例句で申し訳ありませんが、季語が「チューリップ」だと若々しい恋愛を想わせる句なのに、季語を「赤い薔薇」に変えただけで、その恋愛がなまめかしさを持ち始め、読みようによっては、不倫の匂いまでして来ます。そして「枯尾花」になると、恋愛を超えて、手紙を届けたい相手は、もうこの世にいないようにも感じてしまいます。このように、同じ句でも、斡旋した季語が変われば、まったく別の句になってしまうのです。
「自分の想い」に限らず、「情景」や「状況」なども、季語が語ってくれます。「海」と言わなくても、海辺に咲く花や海にいる鳥などを季語として取り合わせれば、作者が海にいることが分かりますし、その上、斡旋した季語の持つ本意によって、もっと深い部分まで表現することができます。俳句にとって最も重要なことは、何と言っても季語の斡旋であり、過去の秀句のすべてが、季語の斡旋で成功していると言っても過言ではありません。
しかし、初心のうちは、「季語が無いと俳句にならないので、しかたなく季語を入れる」とか、「季語を入れなくてもいいなら、あと5文字もワクが広がるのに」などと思う人もいるようです。
でも、そう言った作者の主観的な5文字よりも、たったひとつの季語のほうが、何倍もの想いを表現してくれます。
自分の想いを季語に委ねる、と言うのは、愛する人へのラブレターを誰かに届けてもらうようなものです。そんな時、誰でも、見ず知らずの人に大切なラブレターを託したりはしないでしょう。本当に心から信頼している友人に頼むはずです。
ですから、俳句は、季語を信頼しないと成り立ちません。心から季語を信頼してこそ、自分の一番伝えたい想いを委ねることができるのです。