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スレッドNo.60

裏第六話 俳句スポーツ説

昭和57年の「俳句年鑑」に、波多野爽波のとても興味深い文章が掲載され、俳壇でも話題になりました。それは「俳句スポーツ説」と言う文章で、俳句を志す者、特に初心の者にとって、とても重要な「俳句上達の要」が書かれています。

以下、その文章を一部紹介しましょう。

『若人にとって俳句という詩はたいへんに厄介な存在だ。とにもかくにも、一日も早く「芸」としての要素をタップリと身につけてしまわねば、ある地点から一歩も前へは進めない。(中略)時間、体力、記憶力など、これを正しい方向へ集約してフルに働かせば、年輩の人の何倍かの分量を力として身に備え得る。たとえば「写生」の一事をとってみても、これをスポーツの練習をつむがごとく、ものに即して反射的に対応できるような己が「体力づくり」と割り切って実行する若人が出てきてくれないものか。
また古今の名句をあたかも単語カードで単語を覚えるかのごとくに、旺盛な記憶力を働かせて頭いっぱいに詰めこんでしまう若人が出てきてくれないものか。』

爽波のこの「俳句スポーツ説」は、俳句の初心者、それも若い人へ向けた文章として書かれています。記憶力などが高く、吸収する力をたくさん持っている若いうちに、俳句の基本を身につけろ、と言うこと、そして、その方法をスポーツの練習にたとえているのです。

しかし、全ての俳人が若い頃から俳句を志すワケではなく、50才、60才を過ぎてから俳句を始める人や、人生の晩年を迎えてから俳句に興味を持ち始める人も多いのが現実です。

それでは、それらの人たちは、どうすれば良いのでしょうか?

その答えが、「しりとり俳句」なのです。
爽波は、別のところで、次のようにも書いています。

『兎も角、若いうちに「身体」に俳句を覚えさせてしまうことが第一です。』

爽波の「俳句スポーツ説」は、この、「頭ではなく、身体に俳句を覚えさせる」と言う考えから出発しているのです。ですから、若い人にしかできない方法ではなく、どんな年代の人でも、どんな状況の人でも、誰でもが同じように俳句を身体に覚えさせる方法があれば、爽波の説を超えることができるのです。

俳話集の「俳句deしりとり」の項にも書きましたが、「しりとり俳句」こそが、年齢や状況に関係無く身体に俳句を覚えさせる最良の方法であり、もしも爽波が現在も生きていたら、絶対に毎晩パソコンの前に座り、朝まで徹夜でしりとり俳句をやっていたことでしょう。

爽波が、写生に対して、「ものに即して反射的に対応できるような~」と言っているのは、まさしく芭蕉の「物の見えたる光、未だ心に消えざる中に云ひ とむべし」を実践するための方法論であり、そのためにも、頭ではなく身体に俳句のリズム、俳句のビートを染み込ませることが必要なのです。

爽波の時代には、パソコンのしりとり俳句は無かったですが、代わりに爽波は「多作多捨」を実践、そして推奨していました。とにかく、俳句を作って作って作りまくる。内容の良し悪しよりも、どんな駄句でも良いから、とにかく一句でも多く作る。たくさん作って、ダメなものはどんどん捨てる。これが、爽波のスタイルでした。これは、しりとり俳句と同じことなのです。ですから、あれだけ良質でオリジナリティーに溢れた数多くの写生句を生み出すことができたのです。水原秋桜子や森澄雄llのように、多作多捨を否定し、いつ訪れるか分からない「一輪の花や一匹の虫が感動を生む瞬間」なんかをボーっと待ってたら、吟行に行っても空振り三振ばっかりで時間切れとなり、締め切りに間に合わせるために、結局は主観に頼った想像の句を作ることになるのです。

秋桜子や澄雄の主観まみれの観念句を読むと、芭蕉の声がまったく届いていないことが良く分かります。

「俳句スポーツ説」は、爽波がふだんから周りの弟子たちに良く話していたことをこの時の原稿のためにまとめたものです。

爽波は、とても厳しい指導をすることで有名で、季語の読み方を質問したりすると、それが入会したての初心者であっても、「季語が読めないなんて、俳人として失格だ!」と一喝するような人でした。でも、その厳しさは、自分自身に対する厳しさの反映したものだったので、とても説得力がありました。自分にも弟子にも甘く、自分の句の推敲までもが甘い、現代の多くの主宰たちと違い、爽波は、弟子にも厳しいけれど、それ以上に自分に厳しい人でした。
「多くの句を暗記しなさい。」と言う指導も、爽波自身、暗記している俳句の数はハンパじゃなく、虚子や蛇笏から素十や草田男の句に至るまで、すぐに100句、200句と口から出て来るのです。それらは、長く俳句をやっているために自然に覚えたのではなく、自ら暗記しようと努力して覚えたものなのです。

実際、20年も30年も俳句をやっているのに、虚子の句100句すら覚えていない、情けない俳人モドキが多い現在の状況では、類想類句ばかりが氾濫するのもうなづけます。

しりとり俳句で遊び、俳句のリズムを身体に染み込ませて、爽波のようなオリジナリティー溢れる写生句をポンポンと作れるようになりたいのか?
せっかくパソコンのある現代に生まれたのに、しりとり俳句に参加せず、多作多捨を否定し、ウンウン唸って苦しみながら、秋桜子や澄雄のように主観まみれの観念句を作りたいのか?
それとも、多くの現代俳人モドキたちと同じように、人の句をまったく読まず、個性の無いどこかで見たような類句ばかりを作って行きたいのか?

俳句と言う器は無限の可能性を持っていますが、そのキャパシティーを決めるのはその人次第であり、俳句を始めた年齢などではなく、どの方法論を選択するかによって決まるのです。

編集・削除(編集済: 2022年09月07日 13:06)

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