MENU
5,530

スレッドNo.62

裏第八話 俳号と言う虚の客観性

松尾芭蕉と言えば、俳句に詳しくない人でも、その名前くらいは知ってると思うし、また、その「芭蕉」と言う名前が、本名じゃなくて、俳句を作る上での名前、俳号だってことも、たいていの人は知っているでしょう。

それでは、芭蕉の名前を知っている人たちが皆、芭蕉の本名を知っているかと言うと、そうではないのです。俳人の中にも知らない人がいるほどで、ようするに、俳号のほうが本名を超えてしまっているのです。

芭蕉は、生まれた時の名前を「金作」と言います。それから、「藤七郎」「甚七郎」「忠右衛門」「宗房」などの名前に変って行きます。芭蕉が、「芭蕉」になる前は「桃青」と言う俳号だったことは有名ですが、その他にも、「風羅坊」「泊船堂」「釣月軒」「栩々斉」「夭々軒」などの別号を名乗っていたり、また、本名の「宗房(むねふさ)」を「そうぼう」と読ませて、これも別号にしていました。芭蕉は、本名と俳号を合わせて、こんなにたくさんの名前を持っていたのです。

現代では、ワリと本名で俳句を作る作家が増えて来ましたが、これは、現代俳句の王道が客観写生になったため、リアリティーを追求する詩において、俳号などと言う「虚」の名前など必要無い、と言う風潮も一因しているのでしょう。

しかし、芭蕉の時代の俳諧から、昭和の近代俳句に至るまで、やはり俳句は「風雅の誠」であり、それは「虚」と「実」の混在する世界であったのです。そのため、俳句を志すのであれば、まずは俳号と言う「虚」の名前を名乗り、浮世の世界に実在する本名の自分とは、別の人格になる必要があったのです。つまり、いかに風流な俳号を名乗るか、と言うことが、俳人としての第一歩だったのです。ここまで読むと、多くの現代俳人と同じく客観写生を志すあたしは、俳号と言う「虚」の名前を名乗ることを不要だと思っているようにとられそうですが、それは逆なのです。あたしの考え方では、客観写生を志す者ほど、俳号が必要になるのです。

客観写生とは、自分の主観や観念を捨て、対象を見ることです。しかし、どんな人間でも、自分の主観や観念を主軸として、日々の生活を送っているのです。そんな人間が、俳句を作る時だけ、客観的なモノの見方をすると言うのは、なかなか難しいことです。そんな時、別の名前を名乗ると、頭の中のスイッチ.の切り換えがしやすくなるのです。

たとえば、「昇」と言う人がいたとします。昇クンは昇クンの主観によって生きているので、花を見ても鳥を見ても、昇クンの主観でそれらを感じます。特に自分自身を見る場合は、昇クンが昇クンを見るワケですから、極めて主観的になってしまいます。しかし、俳句を作る時だけ「子規」と言う俳号を名乗ることにしたとします。そうすると、ふだんの日常生活をしている昇クンとは、心構えの上で一線を引いた感覚となるのです。
いつもの昇クンの主観が薄れ、子規と言うもう一人の俳句用の自分が現れ、そして花や鳥を見るのです。自分自身を写生する時は、子規が昇クンのことを客観的に見るようになるのです。

ですから、現代俳句においては、「浮世を離れる」と言うよりも、「より客観に近づくため」のひとつの手段として、俳号を名乗るべきなのです。

俳句の仲間と会うと、句会以外でも俳号で呼び合いますし、句友と一緒にいる時間は、ずっと「俳号と言うもうひとりの自分」でいることができ、自分自身のことも、とても客観的に見ることができます。だいたいあたしは、10年以上も付き合っているのに、本名を知らない句友がたくさんいますし、句友のほうも、あたしの本名を知らない人たちのほうが多いはずです。

あたしの本名は「きみこ」ですが、お仕事では、名字に「ちゃん」を付けて呼ばれるか、仲の良いスタッフからは「きっこ」と呼ばれています。もちろん、俳号で呼ぶ人なんかいないし、あたしが俳句をやっていることすら、仕事関係の人たちはほとんど知りません。

でも、俳句仲間たちと集まると、すべての人たちがあたしのことを俳号で呼び、「きみこ」や「きっこ」なんて言う人はひとりもいません。それどころか、ほとんどの人が、あたしの本名を知らないのです。

あたしの俳号は、ある魚の名前なので、すべての俳句仲間が、その魚の名前に「ちゃん」か「さん」を付けて呼ぶのです。ですから、俳句仲間といる時間は、あたしは完全に「きっこ」ではなくなり、俳句用の自分になっているのです。

あたしは現在、結社には所属していませんが、過去に数ヶ所の結社に所属していて、それらすべてで現在と同じ俳号を使って来ました。このネットと言う相手の顔が見えない特殊な場で、あたしが俳号を名乗ると言うことは、良い面もありますが、同時に悪い面もあります。

過去の結社の中には、あたしのことを良く思っていない人たちもいますし、あたしが無所属になった一番大きな理由が、結社内の人間関係によるものなので、それをネットの世界にまで介入させたくないのです。そのためにネットでは、仕事上での「きっこ」と言うニックネームで俳句を作る、と言う、あたしの理論に反することをやっているのです。

このサイトを作る時、初めはネット用の俳号を作ろうかとも考えました。でも、10年以上も使って来て、完全に「もうひとりのあたし」になっている俳号以外に、また別の俳号を付けることに抵抗もあったし、とりあえず「きっこ」で始めてみたのです。そうしたら、今では仕事上の「きっこ」とは別の、ネット上で俳句を作る「きっこ」と言う人格ができ上がって来たので、「めんどくさいから、このままでいいや!」と言うことになったのです(笑)

ですから、これから俳句を始めたい人や、俳句を始めたけれど、まだ本名を使っている人は、客観写生を目指したいのであれば、なるべく早く俳号と言う、とても便利な別人格を手に入れることをお薦めします。

俳号と言うものは、ネット上に書き込む時のハンドルネームなどと言う薄っぺらなものと違い、確実にその人の客観性を高め、それまで自分の気づかなかった潜在的な能力を引き出してくれるのです。

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top