裏第十一話 ビールと枝豆
あたしたち俳人にとって歳時記と言うものは、クリスチャンにとっての聖書のようなもので、「俳人のバイブル」と呼んでも過言ではありません。歳時記と言うバイブルの中に掲載されている季語のひとつひとつは、まさしく神の言葉であり、それらは俳人にとっては絶対的なものなのです。
それなのに、嗚呼それなのに、それなのに‥‥クリスチャンが聖書を理解できずに悩むように、あたしも歳時記を読んで悩んでしまいます。特に、毎年夏を迎えると‥‥。
ビンボーなあたしのヒソカな夏の楽しみは、お仕事から帰って来て、お風呂で「汗」を流し、お風呂上りに「水着」に着替え、「冷蔵庫」からキンキンに冷えた「ビール」代わりの発泡酒を出して、どこのファンとは言いませんが、首からオレンジ色のメガホンを提げ、両側にジャビット君を座らせ、テレビで「ナイター」を見ることです(笑)
「ビール」とくれば、オツマミはもちろん「枝豆」です。世の中のほとんどの人たちは、何のタメライもなく、冷えたビールと枝豆を用意して、テレビの前に座るはずです。
しかし、俳人であるあたしは、ここで悩んでしまうのです。
「汗」「水着」「冷蔵庫」「ビール」「ナイター」と、すべて夏の季語なのに、オツマミの「枝豆」だけが、歳時記を見ると秋の季語に分類されているんですぅ‥‥。
そしてあたしは迷える子羊となり、夏なのに秋のオツマミを食べてしまった罪悪感にさいなまれ、次の日曜日に、近所の教会へとザンゲに行くのです(笑)
あたしはお着物が大好きで、俳句を作る早さとお着物の着付けのスピードは、波多野爽波にも負けません。特に浴衣が大好きで、夏になると、用事もないのに浴衣でウロウロしたりもします。多摩川の「花火大会」や町内の「盆踊り」にも、必ず「浴衣」で出かけて行きます。
しかし、ここでもあたしは悩んでしまうのです。着ている「浴衣」も帯に挿している「団扇(うちわ)」も道の両側に並ぶ「夜店」も全部夏の季語なのに、カンジンの「盆踊り」が、秋の季語なんですぅ‥‥。
そしてあたしは迷える子猫となり、夏なのに秋の盆踊りを踊ってしまった罪悪感にさいなまれ、教会へザンゲに行くと、神父さまから「子猫は春の季語です!」と、さらにツッコまれてしまうのです(笑)
夏と言えば「海水浴」です。あたしは海が大好きなので、仲間と海に行き、海面に油が浮くほど「日焼け止め」を塗って、「ビーチパラソル」の下で「お昼寝」したり、「海の家」で「かき氷」や「冷し中華」を食べたり、夜には浜辺で「花火」をしたりして楽しみます。海水浴での一番の楽しみと言えば、何と言っても「スイカ割り」です。みんなでワイワイ騒ぎながらスイカを割って、砂がついたところは海で洗うと、塩味がちょうどいいんです♪
しかし、ここでもあたしは悩んでしまうのです。フンパツして買った今年のモデルの「ビキニ」を着て、鼻緒にハイビスカスがついたかわいい「ビーチサンダル」を履いて、お気に入りの「サングラス」をかけてるのに、目の前の美味しそうな「西瓜(すいか)」だけが、秋の季語なんですぅ‥‥。
そしてあたしは迷える子豚となり、もう神父さまに合わせる顔もなくなり、「炎天下」の街をさまよい歩いて行くのです。すると、真っ白なシャツを着た集団を発見しました。「白シャツ」と言うのは夏の季語、あたしはワラにもすがる思いで、その白装束の集団のほうへと進んで行きました。
すると、その中の一人があたしに向かって叫びました。「おい!ここはスカラー波が出ているから、近づいたら危険だぞ!」
何を言ってんだか良く分かんないので、電子辞書でスカラー波って調べてみたら、な~んだ、「静電気」のことじゃん!バッカみたい!(笑)
「静電気」と言えば、冬の季語。もう夏だって言うのに、「静電気(冬)」だとか「アザラシ(春)」だとか、他の季節の季語にばっかり捉われているイカレタ集団なんかほっといて、あたしは現実世界に舞い戻って来ました。
夏も盛りになると、ほうぼうから「暑中見舞い」や「お中元」が送られて来ます。ほうぼうから、と言っても、魚のホウボウから送られて来るワケじゃなくて、ちゃんとした人間からです(笑) ちなみに、魚の「ホウボウ」は冬の季語です。
そんなことはどーでもいいんだけど、ここでまた、あたしは悩んでしまいます。だって、夏の暑い日に、同時に届いたのに、「暑中見舞い」は夏の季語で、「お中元」は秋の季語なんですぅ‥‥。
それなのに、秋の季語であるお中元を開けてみると、中から出て来るのは、「水ようかん」や「素麺」、「ビール券」などなど、みんな夏のものばかりです。
そしてあたしはノイローゼの子羊となり、もう歳時記なんか信じられなくなり、神父さまに背を向け、怪しげな自己啓発セミナーに参加し、変な宗教で壺を買わされ、変な俳句結社に入信し、主宰と同人に洗脳され‥‥なんてことは無いけど、とにかく困ってしまうのです。
これらの他にも、子供の頃、夏休みに観察日記を書いた「朝顔」も、7月7日の「七夕」や「天の川」「流れ星」も、みんな秋の季語です。蝉は夏の季語なのに、蝉の中で「つくつく法師」だけが秋の季語なのです。いくら陰暦によって作られているとは言え、7月7日って言ったら、まだ夏休みも始まっていないのに、なんでもう秋なの?
俳句の季語と言うものは、季感を表現することが本意なのに、これじゃあメチャクチャです。
あたしの大好きな松田聖子は、数年前に、聖子と言う芸名にちなんで、「バイブル」と言うタイトルのベストアルバムをリリースしました。このアルバムは、ファンのアンケートによって選ばれた楽曲だけで構成されていて、どの曲も誰でもが知っている大ヒット曲ばかりで、申しぶんの無い内容です。
そして、このアルバムが発売されてから1ヶ月も経たないうちに、「バイブルⅡ」と言うアルバムが発売されました。最初のアルバムに収めきれなかった曲を集めたものだと誰もが思いましたが、裏面のクレジットを見てみると、驚いたことに収録曲の9割近くが、「バイブル」と重複していたのです。
これは、「バイブル」がファンのアンケートによって作られたのに対して、「バイブルⅡ」は、松田聖子自身のセレクトによる編集、と言うことだったのです。
たった数曲がどうしても納得できなかった松田聖子は、それだけのために新しい聖書を作ったのです。
聖書にも「旧約聖書」と「新約聖書」があるように、松田聖子のベストアルバムにも「バイブル」と「バイブルⅡ」があるように、あたしたちのバイブルである「歳時記」にも、そろそろ今の季感に従い、枝豆や西瓜、盆踊りや七夕を「夏」とする「歳時記Ⅱ」が現れても良いのではないかと、21世紀の到来とともに解散してしまった「聖飢魔Ⅱ」のデーモン小暮閣下とともに、願ってやまない今日この頃です(爆)