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スレッドNo.69

裏第十五話 今どき第二芸術論(笑)

あたしの俳話集は、基本的には、俳句に興味を持ち始めた人から、俳句を始めて数年の人たちに向けて書いています。ですから、波多野爽波の「俳句スポーツ説」など、長年俳句をやっていれば、誰でもが知っているようなことも、あえて書いたりしています。

そんなワケで今回は、現代俳句をやって行く上で避けては通れない、桑原武夫の「第二芸術論」について、簡単に書いてみたいと思います。

俳人の中には、俳句を作ることよりも、屁理屈をこねて議論したりすることを生きがいにしているタチの悪い人たちもいて、特にネットの世界では、そう言った人たちが多く見られます。それは、ネットと言う相手の顔の見えない世界では、テキトーなハンドルネームを使い、他人の掲示板で言いたい放題に騒いでも、何にも罪にならないばかりか、自分の正体を隠し続けることができるからです。あたしのように客観写生を志している現代俳人に対して、そう言ったヤカラがネット上で議論を仕掛けて来る場合、自分の屁理屈が行き詰まって来ると、必ずバカのひとつ覚えのように口にするのが、この「第二芸術論」なのです。

この「第二芸術論」とは、昭和21年、桑原武夫が総合雑誌「世界」に発表した「第二芸術」と言う、現代俳句を批判した文章のことです。

自分の考えなど全くなく、全て他人のウケウリで、顔の見えないネット上で、屁理屈で人を凹ますことを生きがいにしているようなニセ俳人たちにとっては、この「第二芸術」と言う文章は、とても心強い味方であり、ファイナルウエポンなのでしょう。でも、あたしに言わせれば、世の中は21世紀だって言うのに、こんな時代背景の全然違ってた50年以上も前の文章なんか引っ張り出して、バッカじゃないの?って感じです。でもまあ取りあえず、知らない人のために、簡単に説明しておきましょう。

「第二芸術論」とは、

①現代俳句は、作品自体に芸術性価値がなく、芸術品と呼ぶには未完結性のものである。

②俳句における芸術家としての地位は、その作品ではなく、弟子の数などの俗なことで決まる。

③俳句は日本だけのものであり、西洋を詠むことができない。

これらの理由から、俳句を第二芸術と呼び、他の芸術とは区別するべきだ、と言うものです。

50年以上も昔はどうだったか知らないけど、こんなくだらない理論、21世紀の現代では全く通用しません。

まず①の未完結性のものは芸術でない、なんて考え、今どきこんなこと言ったら、世界中から笑われてしまいます。今や全ての芸術は、完結と言うワクの中に終焉を迎え、新たなる可能性を求めて、未完結の世界へと足を踏み出しているのです。

それから②ですが、これは、その通りです(笑) 芭蕉や子規の言葉が全く届いていない、赤いセーターのオバサンやパセリのオジサンが、今でも俳壇を牛耳ってるのだからしかたありません。

だからこそあたしが、このセクシーなクチビルにランコムの新色のリップグロスをたっぷりと塗って、何度も何度も「縄文式結社こそが俳句を衰退させている元凶だ!」と叫んでいるのです。だから俳話の「俳壇クエスト」の巻で、ダコツの洞窟まで、こいつらを倒しに行ったのです(爆)

最後に③ですが、これこそ屁理屈の極みでしょう。
俳句とは、日本で生まれた日本の詩です。日本の四季を肌で感じて育った人が、日本人特有のワビやサビと言った感性を使い、日本語で書く詩です。つまり、俳句とは、日本と言う風土に根ざした文芸であり、それを否定すると言うことは、世界中に数え切れないほどあるであろう、その土地土地に根ざした風土性豊かな芸術を全て否定することになるのです。

言葉も育った環境も感性も全く違う、全世界の人が全て理解できるものしか芸術と呼べないと言うのなら、本当の芸術なんて、この世に存在しないでしょう。

そんなワケで、もしもどこかの俳句サイトの掲示板で、屁理屈好きの文学ヲタクに議論をふっかけられたら、そいつの口から「第二芸術論」と言う言葉が出た瞬間に、「ああ、コイツは相手にしても時間の無駄だな」と思って下さい。
今どき、屁のツッパリにもならない「第二芸術論」なんかを振りかざすのは、縄文式俳人ならぬ、縄文式評論家なんですから(笑)

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