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スレッドNo.7

第五話 ★ホトトギス帝国の崩壊

 現在、日本中に800以上もあると言われている俳句結社の中で、一番大きいのが、会員数2万人を誇る『ホトトギス』だ。とは言っても、現在は、ただ会員数が多いだけで、主宰を始め、たいした俳人もいないし、過去の栄光にしがみついているだけの、パッとしない結社になっちゃったけど。
 あたしの俳句仲間たちは、句会でつまらない句を提出した仲間に、「あなた、所属はホトトギス?」なんてジョークを言うほどだし(笑)

 ホトトギスは、もともとは文芸総合誌として、明治30年に、四国の松山でスタートした。翌年、高浜虚子(きょし)が、金にモノを言わせて権利を買い取り、自分がオーナーになって、どんどん発展させて行ったのだ。
 虚子と言うのは、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と松山中学の同級生で、二人とも、同じ中学の先輩である正岡子規の弟子だったのね。
 子規の没後、虚子は、子規の作り上げた俳句を 有季定型を絶対条件とした現在の俳句へと昇華させた俳句界の功労者。顔もデカいし態度もデカいけど、お金はいっぱい持ってるし、その上、俳句の実力もすごかったから、ホントの意味での実力者だったのね。
 その一方、碧梧桐は、子規の後継者となったのにもかかわらず、実践の伴わない革新理論ばかりを追求し続けたため、俳壇での主導権を虚子に奪われてしまったの。若い頃は、すっごくいい写生句を詠んでたのに、ホントにもったいない‥‥。口先ばかりで政策が伴わない、小泉総理みたいになっちゃったのね(笑)
 虚子と碧梧桐は終生のライバルで、虚子が星飛雄馬なら碧梧桐は花形満、虚子が矢吹丈なら碧梧桐は力石徹って感じだったのね。何度もぶつかり合いながらも、結局は親友だったから、碧梧桐が亡くなった時、虚子は、こんな追悼の句を送ったの。

 『たとふれば独楽のはじける如くなり』

コマとコマがぶつかって弾けても、何度も何度も近づいて行くと言う様を自分たちに投影したのね。 
 そんなこんなで話は戻り、ホトトギスは、皆様ご存知の夏目漱石の『我輩は猫である』を連載したりして、総合文芸誌として大きくなり、後に俳句専門誌へと変わって行った。特に、大正から昭和初期にかけては、まさにホトトギスの全盛期。自分の句が一句でもホトトギスに掲載されれば、親戚を集めてお赤飯を振舞ったと言われるほど、その権威は絶対的だった。

 ちょっと話はダッフンだ‥‥じゃなくて、脱線しちゃうけど、『我輩は猫である』のモデルになった、夏目漱石の飼ってた猫が死んじゃった時、こりゃあ一大事だってんで、虚子の俳句仲間の松根東洋城(とうようじょう)が、虚子に写メール‥‥じゃなくて、電報を打ったのね。
 その文面は、『センセイノネコガシニタルヨサムカナ』、昔の電報はカタカナしか使えなかったからね。書き直すと、『先生の猫が死にたる夜寒かな』ってなるワケ。
 それに対して、虚子が返した電報は、『ワガハイノカイミョウモナキスゝキカナ』、つまり、『我輩の戒名も無き薄かな』ね。
俳句、最強!俳句、恐るべし!俳句、デンポー向き!(笑)

 そんなワケで、俳句は、有季定型の他にも新傾向として、季語の無いものや自由律と呼ばれる文字数の制限の無いもの、多行形式のものなど、様々なジャンルを生み出して行った。有季定型の中でも、虚子の提唱した客観写生とは相反する、人間探求派の流れなどもあり、現在では、それらの枝分かれした無数の結社が、我こそが師を継承するものなり!と、大小様々に乱立しているのだ。まるで、『本家タイヤキ屋』の隣に『元祖タイヤキ屋』があり、向かいに『タイヤキ総本店』があるみたいなもんだ(笑)
 ましてや、本当の総本山の『ホトトギス・タイヤキ本舗』にマトモなタイヤキ職人がいなくなった今、『チャ~ンス♪』なんて思ってる中堅結社の主宰なんかもいたりして!
 なにしろ俳壇には、俳句を作ることなんか二の次で、賞を取ったり名前を売ったり権力を持つことしかアタマにないような、根回しが大好きな腹黒~いのがウジャウジャしてるから(笑)
 今年は、俳諧から俳句、和歌から短歌を確立した、正岡子規の没後100年にあたる。そんな年に、この現在の俳壇のアリサマを見たら、子規は草葉の陰でどんな気持ちになるだろうか‥‥。

編集・削除(編集済: 2022年08月09日 20:42)

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