裏第十六話 写生の嘘と対象の本質
体温計口にくはへてアロハシャツ きっこ
これは、ある俳句サイトのしりとり俳句のコーナーで、前の人の句から「体」の文字をいただき、あたしが作った句です。あたしは、客観写生を志していますので、たとえしりとり俳句と言えども、自分の体験などを思い出し、そして句を作ります。すべて想像だけで句を作ったりすることは、特別な状況以外にはありえません。
でもこの句、2つも嘘をついているんです。体温計は、口にくわえていたのではなく、脇にはさんでいたのです。そして、アロハシャツではなく、アロハみたいに派手なパジャマだったんです。
先日、検査入院した時、隣りのベッドの女性が、ものすごく派手なパジャマを着ていて、「そのパジャマ、まるでアロハみたいだね!」って言ったら、「だって、もう夏だもん♪」って言われたんです。あたしより年下のその女性は、長期入院なのに、とても明るくて楽しい人でした。
しりとり俳句で、前の人の句の中に「体」と言う文字を見つけ、「体温計」と言う言葉を連想した時、すぐにこの人の笑顔と派手なパジャマを思い出したのです。
ですから、正確に言えば、これは嘘の句と言うことになります。
あたしは、客観写生を志していますが、主観、客観に関わらず、写生と言うのは対象を見て、そのまま写し取ることです。絵画の写生で、目の前にないものを想像で描き足したら、それは写生画ではなくなってしまいます。
しかし、俳句の写生と言うものは、そうではないのです。俳句の写生とは、対象の表面的な部分を写し取るのではなく、対象の本質的な部分を写し取る作業なのです。見たものをそのまま写し取ると言うことはとても大切で、とにかく初心の頃は、見たものをそのまま言葉に変換して行く作業をコツコツと積み重ねて行くことが、何よりも本物の俳句への近道なのです。
この作業は、俳句の基礎体力がつくばかりでなく、俳句にとって一番重要な、対象の本質を見抜く力をつけてくれるのです。見たものをそのまま写し取るだけなら、使い捨てカメラの「写るんです」を持って歩いていれば十分ですが、対象の本質は、カメラのレンズでは写し取ることができないのです。
一般的には嘘と言われることでも、対象の本質を浮き彫りにするための必然であれば、それは嘘にはなりません。それどころか、それこそが真実となりえるのです。
山道を歩いていて、美しい桔梗(ききょう)を目にしたとします。それからしばらく歩いて行き、見晴らしの良い場所に出ました。美味しい空気を胸いっぱいに吸い、素晴らしい風景を眺めているうちに、ひとつの想いが言葉になったとします。でも、今、目の前に見える風景の中には、その言葉にピッタリの季語が見つかりません。そんな時、先ほど目にした桔梗のことを思い出しました。風に揺れる紫の桔梗は、今の自分の心象にピッタリだと感じました。そして、桔梗と言う季語と、心から湧いて来た想いが結びつき、ひとつの詩になるのです。
目の前に桔梗は咲いていないのですから、これも嘘のひとつでしょう。
赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
作者の碧梧桐によれば、実際は、白い椿のほうが先に落ちたそうです。しかし、対象とする椿を見続けるうちに、その本質が見えて来て、このような句が完成されたそうです。全く何も見ずに、1から10まで想像で作ったような句は、ただの自己満足の世界ですが、自分の見たもの、感じたことなどの実体験をベースとし、その本質を引き出すためであれば、そこに嘘があったとしても、それは写生なのです。
あたしが病院で出会った女性は、もう一年も入院していて、今年の夏も病院で過ごすそうです。
一番遊びたい年頃なのに、海に行くどころか、街を歩くこともオシャレすることもできず、そして病気と闘っています。それなのに精一杯明るく「だって、もう夏だもん♪」と言った彼女にとって、その派手なパジャマは、まさしくアロハシャツだったのです。
これが、対象の本質と言うことであり、そこを写し取ることこそが、俳句における写生なのです。